[PR]テレビ番組表
今夜の番組チェック

*********************************************

幻の満州国皇帝救出作戦

88 :名無し三等兵 :03/08/04 17:51 ID:wNAM2Zb8
★幻の満州国皇帝救出作戦  旧日本軍の台湾人 邱さん

・五十八年前の夏、一機の軍用機が岐阜県各務原飛行場を飛び立った。日本は
 敗れ、日本が建国した満州国も崩壊した。軍用機は同国の皇帝、愛新覚羅溥儀
 (あいしんかくらふぎ)の救援機。溥儀は当時のソ連軍に捕まり、脱出できなかった
 ことを自伝「わが半生」に記述しているが、日本軍が救援機を飛ばした史実を知る
 人は少ない。その作戦に加わった台湾人、邱錦春さん(78)が台北で健在だ。
 「作戦参加を今も誇りに思っています」という邱さんに敗戦直後の救出作戦を聞いた。

 邱さんは台湾・高雄市の出身。宮崎県の都城実業から栃木・宇都宮の陸軍学校に
 入り、陸軍第七飛行部隊に配属、そこで八月十五日の敗戦を迎えた。二日後、
 邱さんら五人は「満州国皇帝をお迎えに行く」との命令を言い渡された。邱さんは
 航空士で伍長。翌十八日午前八時、兵舎から飛行場に行くと、「四式重爆(キ−67)」
 が待機していた。「救出命令に特別な気持ちはなかったが、機翼の日章旗と尾翼の
 部隊記号がペンキで塗りつぶされていたのは悲しかった。戦死したら、犬死にになる。
 靖国神社に祭られないのではないかと思った」


正午すぎにソウルに着陸。関東軍司令部から連絡はない。次に平壌を目指す。
 ここでも連絡がとれず、軍の招待所に宿泊。翌朝、関東軍からの無線連絡が入った。
 「満州国皇帝は奉天(現瀋陽)から平壌に行く。そこで即時、離陸できる態勢で
 待機せよ」。すぐに始動できるよう暖機運転を繰り返したが、その日も翌日も来ない。
 二十一日昼、緊急連絡。「皇帝は十九日、ソ連軍に逮捕され、平壌に日本軍の
 救出機が待機していることが知られてしまった。ソ連軍は平壌飛行場攻撃のため
 南下中。即時離陸せよ」。二十一日夕、各務原に帰還した。

 邱さんは帰国後、専売局勤めなどを経て、貿易会社を経営し、今は悠々自適。
 敗戦の最大の悲しみは「日本人から外国人になったこと」。今も戦友と親密な
 交際が続くが、五人のクルーのうち二人は他界し、昨年を最後に戦友会は解散。
 それが「寂しくてならない」と話した。
 http://www.hokuriku.chunichi.co.jp/00/sya/20030804/eve_____sya_____005.shtml



********************************************


60年ぶりに卒業証書授与
60年ぶりに卒業証書授与 台湾の元少年工らに

戦時中、神奈川県大和市などにあった旧高座海軍工廠(こうしょう)で働き
ながら学んだ台湾の元少年工員たちに、約60年ぶりに卒業証書を手渡す
授与式が20日、同県座間市の市民文化会館で行われた。

70代の元少年工と家族ら約600人が台湾から参加。厚生労働省が用意
した工員養成所の卒業証書39人分と工廠の在職証明書約1200人分が
代表者に手渡された。

卒業証書を受け取った呉永生さん(76)は「選抜試験に合格し、日本に
来たときは本当にうれしかった。飛行機技師になる夢は敗戦で破れたが、
今日を迎えることができ感動している」と目に涙をうっすらと浮かべた。
邱仕才さん(72)は「子どもだったが、懸命に働いた。空襲は激しく食べ物も
質素で大変だった」と当時を振り返った。(共同通信)

[10月20日19時14分更新]

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20031020-00000158-kyodo-soci



*********************************************

御利益
パート1・44 :文責:名無しさん :02/02/25 00:19 ID:HmV/8NOi

戦時中の台湾で日本兵が航空機事故のために死にました。
その後現場では幽霊の噂が立ったため、村人達が慰霊碑を
建立したのです。ところが慰霊碑建立に携わった村人達が
次々と宝くじに当たってしまったのです。
たちまちのうちに大評判となり、今では立派な廟となり、
台湾じゅうの尊崇を集めています。

これは親日と言うよりも単なる現世利益かな?



*********************************************

卑屈になることはない
パート1・140 :ななし :02/02/27 22:50 ID:TS5K1a7T

>>129-130

10年程前取引先の台湾企業の社長さんから同じようなことを言われたことがあるよ。

そのとき、その社長さんはまるでおじいちゃんが孫に語るようなまなざしで日本統治の頃の自分や台湾のことを話してくれていたんだ。

戦争の話になったとき俺が「ご迷惑をかけたでしょう。すみませんでした。」といった瞬間その形相がそれまでの翁面のような穏やかな表情から一転して鬼面に変わったんだ。

そして
「君は日本がどんな悪いことをしたと思っているんだ!!君はまったく
わかっていない。確かに日本統治は誰にも喜ばれることではなかっただ
ろう。しかしそんなことはいつの時代でもいっしょですよ。台湾人が統
治する今だってそうです。なぜ私がこんなに怒っているかわかるかい?
日本人は日本の功罪をまったく理解していないで表面だけでぺこぺこ謝る。
心がないんですよ。心があれば罪と功績が自然と見えてくるものだ。君
はぺこぺこ謝る前に自分の祖父母の功績をもっと勉強しなさい。誇るべ
き所は誇りなさい。心のないうわべだけの言葉は元日本人さらにはあなた方が統治したアジア全体への侮辱なんだよ。卑屈になることはない。
日本人はもっと堂々としなさい!!」

とすごい剣幕で怒られたんだ。返す言葉はなかったよ。
ソースは?って問われると俺の脳みそとその社長さんの脳みそしかないんだけどね。あの社長さん今も元気かな。




*********************************************

戦死者への冒涜だ
パート1・173 :文責:名無しさん :02/02/28 01:56 ID:4mSgh0PJ

私はあなたとは全く別の立場から、アジアの友好を祈って
いるものです。

あなたは台湾へは行かれたことがありますか?
台湾では小林よしのりの『台湾論』が話題となりましたが、
本省人の歐吉桑世代を中心に肯定的な意見も多数あること
を御存意ですか?
(先日台北で行われた「世界台湾人大会」では『台湾論』
を支持する声明が発表された)
あなた方旧社会党は、中共や鮮人のことには熱心ですが、
なぜもっと台湾に目を向けないのですか?

蔡焜燦先生や、鄭春河先生、許文龍先生、金美齡女史など、
社会党に都合のいいことを言って貰えないからですか。
中華民国国民党政権を独裁政権と罵っておきながら(否定は
しませんが)、それ以上の中共や北鮮の独裁暴政には口を噤
んで友好を称える。
台湾独立も支那のチベット侵略、新疆の核実験も中共の御機
嫌を窺って何も言わない。
これ以上の偽善が他にありましょうか?

あなた方のような、日本の侵略が云々と云っている輩がどれ
ほどかつての台湾同胞の心を傷付けているのか気づかないの
ですか?
彼らは、かつて日本人であったことに誇りを持っているのです。
自ら志願して大東亜戦争に参加したのです。

あなたは、国旗や国歌にも反対の様ですが、台北の烏来にある
「高砂義勇軍慰霊碑」には毎日日章旗が翻っていることを御存
知ですか?
台南の「飛虎将軍廟」では毎日堂守さんが君が代と海ゆかばを
うたって日本の兵隊さんを祀っていることを御存知なんですか。
台湾の戦友会の年老いた方々が毎年靖国神社に参拝にいらっし
ゃっていることを御存知なんですか?
知っていたら、あなたの様な国会活動は出来ませんよね。

最後に、ある台湾独立運動家の言葉を贈ります。

「日本が敗戦したと同時に、我々台湾も敗戦しました。靖国神
社には台湾人の元日本兵士二万八千柱が眠っておられます。
私はもちろん台湾人の英霊だけでなく、すべての英霊に黙祷を
捧げました。
 英霊たちは、侵略しているんだ、という気持を持ちながら戦い
に出られたのでしょうか。
違います。多くの兵士は、自分の祖国を守るために、あるいはこ
れからのよりよき世界を創るために、命を捧げられたのです。
 日本政府は台湾を無視しつづけて、どうして中共の顔色ばかり
窺っているのですか。
これが二万八千人の台湾人が尊い命を捧げた国の正体ですか。
日本の国会が謝罪することは、日本の戦死者の冒涜ばかりでは
ありません。
台湾人の戦死者への冒涜であることも銘記してもらいたいと思い
ます。」     (平成六年八月十五日、黄昭堂先生)




*********************************************

日本が何したんだ
パート1・304 :バーチャバカ一代 ◆3iCOYKds :02/02/28 19:46 ID:p7QNVp2n

台湾はほんとに親日だよね、他所からのコピペだが

103 名前: 王八蛋総統閣下 ◆IEXmM1Rw 投稿日: 01/11/16 18:44 ID:zEi2hUD0
日本人は本当にもっと胸を張るべきでしょう。
台湾にいた時のおじいちゃんおばあちゃんも、
「日本が何したんだ?君たちのご先祖は立派なことをしたのであって
悪いことはもう反省している。もう卑屈になる必要はない。
昔みたいに誇りを大切にする日本人になってくれ。
あなたのご先祖様が持ってた本物の武士道を取り戻してくれ。
日本がこのままじゃ我々は死ねないよ。
でも、我々は死ぬまで日本を見守ってるからな」

と言ってくれている。
みんなで先祖がやったことに誇りを持とうじゃないの。


俺もそのうち台湾には絶対行って見たいと思ってる。




*********************************************

八田與一のダム
パート1・307 :バーチャバカ一代 ◆3iCOYKds :02/02/28 20:03 ID:p7QNVp2n

http://www.pure.co.jp/~kusu/takao/35.htm

1910年(明治43年)海を渡った青年技師
石川県金沢市に生まれた八田與一は、「東京帝国大学工科土木工学科」を卒業し、
台湾総督府の土木課で働くために台湾に渡ってきました。
1910年、與一24歳の時です。当時台湾は日本の統治下で(1894〜95年の日清戦争後、
下関条約によって台湾は日本の領土となっていた)またこの年には日本は韓国も併合してしまいます。

與一は台湾に来て、高雄の街をどう発展させるかとか台南に水道を作る工事とかの計画に当たります。
與一の考える計画は、例えば高雄の地は港より低い土地だったので街全部に土を盛って高くすればいい
というスケールの大きいもので、與一の上司もあきれ果てるほど。
いつしか「八田の大風呂敷」というあだ名がつくほどでした。

この頃、日本国内では米が足りなくなっており、
台湾でたくさん米を作って日本に運ぼうという考えがありました。
しかし、台湾には土地はあるのですが灌漑設備が不十分でした。
雨が降っても急流となって一気に海へ流れてしまうか、多量なら洪水を起こしてしまうのです。
水をうまくためて、その水をたくさんの水田に行き渡らせることができさえすれば米の増産は十分に可能だったのです。
與一はこんな情勢の中で、台北近くの桃園地域で川の上流から20キロメートル以上水を引き、ため池を作り、水路を張りめぐらして水田に水を送る計画を立てました。
たいへんなお金と長い年月をかけてこの工事は完成します。その結果、2万2千ヘクタールのすばらしい水田ができました。
「八田の大風呂敷」はあだ名ではなく本物になったのです。

実は、與一はこの桃園の工事の見通しが立った頃から、新たな別の大工事の計画を練っていました。
それが、この銅像につながる「嘉南大?」(かなんたいしゅう)の大工事だったのです。
嘉南平原を「緑の大地」に!    
嘉南平原(台湾中部の嘉義から台南にかけての台湾で一番広い平原)は、当時「不毛の大地」と呼ばれていました。
雨が降り続くとすぐに洪水、一気に海へ流れ耕作には使えない、秋と冬には雨は降らない、
海岸近くでは海水の逆流による塩害・・・。嘉南平原の農民たちは雨季に米を作り、
ふだんは水がなくても作れるさとうきびやピーナッツを作って細々と生活をしていたのです。
嘉南平原の貧しい農民の暮らしを見て、何とかできないものかと考えた與一は、
この広い平原にどうすれば耕作に必要な水を行き渡らせることができるかを調査しました。
   
そして、台南縣の「烏山頭」(うざんとう)というところに水庫(ダム)を作って嘉南平原に水路を張りめぐらせ、
「不毛の大地」を「緑の大地」に変える計画書を作りました。桃園の3.4倍、7万5千ヘクタールの大地に水を送るという壮大な計画書でした。

この計画書を受け取った台湾総督府は、その工事の規模の大きさに驚くとともに疑問の声をあげました。
こんな大工事がはたして可能なのかと。しかし、桃園の工事を成功させた與一の力を信頼していた上司が
全面的に協力をしてくれて、この計画書は総督府の認めるところとなったのです。

このころ日本では戦争の準備のために台湾にお金を回すゆとりがなく、
與一の計画した工事はなかなか始められませんでした。與一はこの時間も無駄にはしていません。
日本から招いた技師と一緒にさらに調査を続け、より細かな計画書作りに当たっていました。
工事が始められるのを今か今かと待っていたのは與一だけではありませんでした。
嘉南平原の農民たちが與一の計画を知り、「早く工事を始めてほしい。お金がないのなら、お金も出します。工事でも働きます」
という嘆願書を総督府にどんどん届けたのです。さらに日本で起こった「米騒動」が、
早く台湾で米を増産しなければという危機感を大きくさせました。そして、総督府は與一の新しい計画書を待って工事を開始するとの決定を下しました。

全部コピペるとキリがないので残りはHP見てください、とてもいい話です

http://www.pure.co.jp/~kusu/takao/35.htm



*********************************************

台湾娘
パート1・399 :バーチャバカ一代 ◆3iCOYKds :02/02/28 23:52 ID:KMa1K8UG

台湾の話追加、去年の今頃の話ね

台湾は今、北海道がブームだそうで(もう下火なのかもしれんが)温泉地なんかに観光客が来まくっていた
最初中国人なのかと思ったけど、台湾歓迎、とか垂れ幕下がってて、ああ台湾の人なんだなって

で、かわいい台湾娘が温泉上がりに浴衣で、お土産みてきゃあきゃあ言ってたので、邪ま心20%ぐらいで
話し掛けたら、嬉しそうな、恥ずかしそうな感じで返事してくれたよ。
日本語は片言だったけど、日本の芸能人とかほんとに詳しかったね。
あとで同僚に見つかって、お前なに外国人ナンパしてんだよ、とか言われたが
日台友好に少しは貢献できたかと思うと嬉しかったよ



*********************************************

祀られている日本人
パート1・428 :文責:名無しさん :02/03/01 01:53 ID:xVlsb7ob

「諸君(台湾人兵士)はよく国の為に戦ってきた。しかし、今ここで
軍の命令どおりに犬死にすることはない。祖国台湾には諸君らの生還を
心から願っている家族が待っているのだ。私は日本人だから責任はすべて
私がとる。全員、米軍の捕虜となろうとも生きて帰ってくれ」
(「捏造された日本史」黄文雄)
そう言って、広枝音右衛門、海軍巡査隊長は、台湾人の命を
保証するよう米軍と交渉した後、フィリピンの地で自決した。
昭和五十八年、小隊長をつとめた劉維添はかつての隊長の自決の地を
訪れ、広枝隊長終焉の地の土を集め、茨城県に住むフミ未亡人の手に
わたした。
広枝隊長は獅頭山の権化堂に神様として祀られ、鬼籍の人となった夫
人も、広枝隊長の位牌とともに、かつての部下だった新竹警友会の人た
ちの手によって権化堂に祀られた。

「捏造された日本史」黄文雄


「日本の戦後教育のごとき、(反日教育)が生むものは、祖先への
軽蔑と他人を憎悪する卑しさだけであり、決して愛する心を育まない。
現代日本の青少年による凄惨な事件の数々や、教育現場の荒廃はこう
した戦後教育の悲しい結末であろう。もっとも、歪曲した歴史観に
よって自国をさげすむことは、実に残念であるばかりか、そうした
考えに正義感を覚える輩は、ただ(無知)としかみなされないことも
肝に命じておく必要があろう」

「台湾人と日本精神」蔡焜燦著より



パート2・529 名前: 文責:名無しさん 投稿日: 02/03/27 01:06 ID:paCaINfw

台湾の嘉義県にある富安宮では、森川清治巡査が神様として祭られて
いる。
ことに山地では、警官は地方の守り神として親しまれ、敬愛されて
いた。
現在でさえ、昔の警官が、盛んに昔の地元住民との交流を行っている。

「韓国人の「反日」台湾人の「親日」/黄文雄」より

台南には敵機に体当たりして戦死した日本海軍、杉浦茂峰兵曹長が「飛虎将軍」
という神様として祀られ、毎朝の祝詞では「君が代」が奉上されている。
(これらの民間信仰は浪費だから、と、蒋介石政府に一時禁止されたが、
飛虎将軍廟はそれでも守られたという)

台湾中部、嘉義の「富安宮」には、貧しい村民に課せられた税の減税を
嘆願して自決した東石郷副瀬村の日本人巡査、森川政次郎が「義愛公」と
して祀られている。

「台湾人と日本精神」蔡焜燦著より



*********************************************

「台湾人と日本精神」より
パート1・429 :文責:名無しさん :02/03/01 01:54 ID:xVlsb7ob

嘉南平野の人々は、この地のために生涯を捧げた八田与一夫妻の死を悲しみ
、地元の人々によって墓が建てられ、鳥山頭ダムのほとりに八田与一の銅像
が立てられた。そして白色テロの時には地元の人によって銅像は守られ、今
でも毎年5月8日、八田与一の命日には嘉南農田水利会の人々によって慰霊祭
が行われている。また、後藤新平の「台湾近代化の父」に対して「嘉南大シュウ
の父」と呼ばれている。

台湾南部の高雄にあるある東方工商専科学校では、今でも教育勅語を掲げ、
英訳、中国語、イタリア語など様々な言語に翻訳し、各国の来賓に贈呈し
ている。
そして、「さざれ石」や「天照皇大神」の掛け軸が飾られた日本間があり、
近々台南市に作る予定の東方法商学院大学に、2トンもあるさざれ石を置いた
「大和公園」や、日本の書籍の蔵書では台湾一を誇る「大和文庫」も計画中
であるという。

今でも年配者には、皇室に親近感を抱く人が多く、台湾人がつくった「平成の
美智子皇后お夏痩せ」という俳句まである。
また、皇后が日本のマスコミにバッシングされたとき、テレビを見て「おかわ
いそうだ。おかわいそうだ。」と会合の度に語り合った。
1935年の台湾大地震のときの、昭和天皇の下賜金を額に入れ、飾っていたもの
もいる。

「台湾人と日本精神」蔡焜燦著より



*********************************************

恩師
パート1・430 :文責:名無しさん :02/03/01 01:55 ID:xVlsb7ob

戦前の日本の教育水準は非常に高く、また教師達が皆教育に情熱を燃やしていた上に
、なによりも愛情をもって子供たちに接していた。
私の後輩で、優秀だが家が貧しくて中等学校に入ることが出来ない生徒がいた。
すると先生がその生徒の良心を訪ね、「私が学校へ行かせるから」と、五年間の学
費を先生が肩代りして卒業させたということもあった。
そして戦後、その生徒が日本に暮らす恩師を訪ね、涙の対面を果たした経緯は、当時
の日本の新聞にも取り上げられている。
しかし、そんな美談は当時どこにでもあり、このような愛情を込めた教育は、明治、
大正、昭和の各時代を通して行われていたのである。
(中略)
そんな当時の師弟関係は今も延々と続けられている。
私の母校である彰化商業学校の校長、大場則雄先生の白寿のお祝いに台湾から多くの
教え子が駆け付けた。
すでに視力のおちた恩師に大きな文字で「校長がんばれ」と色紙に書いて手渡し、
先生がたいそう喜んでくれたことが、つい三年前のこと。

「台湾人と日本精神」蔡焜燦著より


パート2・534 名前: 文責:名無しさん 投稿日: 02/03/27 01:15 ID:pCY2fATd

日本人教師と台湾人生との間には強い師弟関係があり、戦後も教え子達が日本の恩師
を訪ねたり、逆に日本から恩師がやってくれば、教え子が台湾中から集まったり、また
銘々が自分の郷里に招こうと恩師の奪い合いが生じたりする。
ところが戦後、大陸からやってきた中国人教師と台湾人生徒にはそんな関係は一切ない。

昭和十年の台湾大震災では、様々な美談が生まれた。
当時公学校三年生の男子生徒が倒壊した建物の下敷になった。彼は虫の息になりながら
も、駆け付けてきた先生を見上げて国歌「君が代」を歌い、しして静かに息を引き取った
のである。
この少年はその後、「君が代少年」と呼ばれ、学校には少年の銅像が建てられた。
これは実話であって、フィクションではない。
もし、我々台湾人が、日本教育を強制されたと捉えていたならば、どうして今わの際に
国歌「君が代」など歌えようか。
現代の日本人は、日本がかつて植民地で皇民化教育を行っていたことを非難するが、
それは「内地でやっていた教育を、同じ日本領土である台湾でやっていただけ」だと
私は納得している。

「台湾人と日本精神」蔡焜燦著より



*********************************************

明石総督の墓
パート1・431 :文責:名無しさん :02/03/01 01:57 ID:O0sSx61t


台湾の土となりし後も、台湾を守り続けるといってくれた、明石元次郎総督を我々は
決して忘れることはないだろう。(中略)
「祖父を台湾に眠らせてやりたい。どうか最後まで台湾の人々のお世話になりたい」。
祖父の遺志を守ろうとする明石元紹氏の願いだった。
これを聞きつけた多くの台湾人が元紹氏を墓地の候補地に案内し、また多くが土地の
提供を申し出たのである。
かつて高砂族と呼ばれた原住民の人々も、「高砂族の英霊と私たちの手でお守りします
から、どうぞ御安心下さい」と進み出た。(中略)
タイヤル族の女性酋長、周麗梅氏などは、明石総督の墓地をどうぞ静かな鳥来へ、と熱
心に働き掛けた。

常に日本語のラジオ番組を聴く父親は、中国製のラジオが故障すると、日本製じゃないから
壊れるんだと愚痴り、テレビが普及した後も子供たちとスポーツ番組を観ながら中国との
試合で日本チームを応援する。
この徹底した日本びいきの父親の夢は、日本に行って皇居と富士山を見ることだった。(中略)
台湾には、そんな日本語世代の人々が集う「友愛グループ」という文化サークルがある。
1992年10月、日本の文化人と親交を深める陳絢暉氏とその弟、陳燦暉氏が発起人となって、
台湾にかつての日本語を残そうと「友愛日本語クラブ」を旗揚げした。

「台湾人と日本精神」蔡焜燦著より


パート4・31 :文責:名無しさん :02/04/08 03:01 ID:g530DcQi

 台湾の人たちに今も敬愛される明石元二郎・元台湾総督の新
しい墓が、台北市近郊の福音山キリスト教墓園内に完成、2月
26日、総督の孫の明石元紹(もとつぐ)氏ら遺族、台湾側支
援者、日本の交流協会台北事務所の関係者らが集まり、完成式
が行われた。

 明石元総督は1918(大正七年)に第7代台湾総督に就任、1
年4カ月後に上京途中、故郷の福岡で病没したが、遺言により
遺体が台湾に埋葬されていた。

 歴代十九人の台湾総督の中で、「台湾に骨を埋めた」のは明
石総督一人とあって、台湾の人たちの敬愛を集めてきた。総督
在任中、台湾の水利、電力、鉄道、銀行などの幅広い分野で台
湾の近代化に貢献したことでも知られる。

産経新聞、H12.02.27、東京朝刊、4頁、国際2面



*********************************************

片思い
パート1・433 :文責:名無しさん :02/03/01 01:57 ID:O0sSx61t

そのほかに、日本の統治によって自分が初めて国という一体感を
味わった、という原住民と称する台湾人の声もありました。
本当に、台湾に関する資料を読めば読むほど、ますます悲しくなり
ます。
ずっと背を向けられてきたにも関らず、日本を嫌いになれない
台湾人の気持ちはやはり切ないものです。
日本語の中に「片思い」という言葉がありますが、台湾人が抱く
感情はそれに近いものがある気がします。
私は年配者たちが、国民党政権の悪口ばかりいって、日本植民地
時代を懐かしく思う気持ちが、やっと分かるようになりました。
しかし当時、戒厳令が敷かれていたせいか、両親や年配者たちから
日本統治時代とか、周りの日本現象について聞かされたことが
ありません。
もちろん、「なぜ、年配者たちは私が知らない言葉で呼び合って
いるのか」という疑問に答えてくれるはずがありませんでした。
今でもその時代のことをたずねると、「何で聞くのか?」と、
警戒心が依然として存在しているようです。
たとえ答えたとしても、日本植民地時代の治安がいかによかった
かといった表面的なことしか教えてくれません。
やはり二等国民の気持ちがつらかったか、それともかつての
「白色恐怖」といわれていた時代が怖かったからでしょうか。

「台湾人と日本人」謝雅梅



*********************************************

親日家・知日家
パート1・434 :文責:名無しさん :02/03/01 01:59 ID:O0sSx61t

現在、台湾は「親日家」が多い国として知られています。
その大半は黄先生とか父といった日本語教育を受けてきた世代を
指しています。
その他にも決して多くはありませんが、私のような日本に留学経験
がある人、そして日本の流行に憧れている若者たちもいます。
しかし、一口に「親日家」といっても、「知日家」かどうかは実に
疑問です。
いつか父が日本に遊びに来たとき、明治神宮に連れていきました。
その中の天皇の経歴を懐かしそうに説明しました。
「えっ、何で知ってるの?」と私は驚きを隠せませんでした。
十年も日本に住み、日本文化をある程度知り「知日家」を自認して
いても、初めて日本に来た父に比べれば、私の「知日」は表面的に
過ぎないかもしれません。
現在、このような「親日家」でもあり、「知日家」でもある彼らは
もう65歳以上となり、すでに第一線から退きつつあり、これから
台湾を担うのは「反日教育」を受けてきた世代に代わります。
それによって、日本に対する親近感がなくなりつつあるのではないか
といわれています。

「台湾人と日本人」謝雅梅




*********************************************

台湾人の声を聞け
パート1・933 :コピペ :02/03/05 19:48 ID:kCHt4wQS

11 :臺灣(台湾)人の聲を聽け! 我愛臺灣 :01/10/22 16:54 ID:QAuzwW/L

日本の侵略が云々と云つてゐる輩がどれほど嘗ての臺灣(台湾)同胞
の心を傷付けてゐるのか気づかないのですか?
彼らは、嘗(かつ)て日本人であつたことに誇りを持つてゐるのです。自ら志願して大東
亞戰爭に參加したのです。

あなたは、國旗や國歌にも反對の樣ですが、臺北の烏來にある「高砂義勇軍慰霊碑」
には毎日「日章旗」が翻つてゐることを御存知ですか?臺南の「飛虎将軍廟」では毎日
堂守さんが「君が代」と「海ゆかば」をうたつて日本の兵隊さんを祀つてゐることを御存知
なんですか。
臺灣の戰友會の年老いた方々が毎年「靖國神社」に参拝にいらつしやつてゐることを御
存知なんですか?
知つていたら、あなたの樣な國會活動は出来ませんよね。

最後に、或る臺灣(台湾)獨立運動家の言葉を贈ります。

「日本が敗戦したと同時に、我々台湾も敗戦しました。靖國神社には台湾人の元日
本兵士二万八千柱が眠っておられます。私はもちろん台湾人の英霊だけでなく、す
べての英霊に黙祷を捧げました。
 英霊たちは、侵略しているんだ、という気持を持ちながら戦いに出られたのでしょ
うか。違います。多くの兵士は、自分の祖国を守るために、あるいはこれからのより
よき世界を創るために、命を捧げられたのです。
 日本政府は台湾を無視しつづけて、どうして中共の顔色ばかり窺っているのですか。
これが二万八千人の台湾人が尊い命を捧げた国の正体ですか。日本の国会が謝罪する
ことは、日本の戦死者の冒涜ばかりではありません。台湾人の戦死者への冒涜である
ことも銘記してもらいたいと思います。」     (平成六年八月十五日、黄昭堂先生)



*********************************************

戦友に会えた

パート2・330 名前: 文責:名無しさん 投稿日: 02/03/15 01:26 ID:kmYCnH8A

台湾の旧日本軍人の方たちが何かの訴訟を起こして訪日したとき、
靖国に参拝したあとで
リポーター「戦友に会えましたか?」
彼ら「(涙ながらに)やっと会えた。」
って子といってたのが思い出される。
あいまいで悪いが、フジの番組じゃなかったかな?
親日話じゃないかも知れんが、ちょっと書いてみた。



*********************************************

同期の桜を歌う会

パート2・333 名前: 文責:名無しさん 投稿日: 02/03/15 02:27 ID:ujtS5tvf

今でも桜の季節には多くの台湾人が靖国神社を訪れ、両国の英霊に祈りを捧げ、
「同期の桜を歌う会」の壇上で涙を浮かべて「台湾軍の歌」(本間雅晴中将作詞)
を放吟する。

「台湾人と日本精神」蔡焜燦著より



*********************************************

敬愛の念


パート2・335 名前: 文責:名無しさん 投稿日: 02/03/15 02:32 ID:ujtS5tvf
「戦後、台湾人が親日的傾向に転じたのは、かつて自分たちが教えを受けた
国民学校をはじめとする各級学校の教師への敬愛の念がそうさせたのであり」
と指摘したのは、黄昭堂教授である(「台湾総督府」)。
日本時代の台湾には、警察が地方の守護神のように恐れられてもいたが、また
敬愛もされていた。
ことに山地原住民の村では、名実ともに守護神であった。
今でも神様として祭られている者もあるということを、知っている日本人も
少ないはずだ。

「韓国人の「反日」台湾人の「親日」/黄文雄」より

台湾南部の高雄にあるある東方工商専科学校では、今でも教育勅語を掲げ、
英訳、中国語、イタリア語など様々な言語に翻訳し、各国の来賓に贈呈し
ている。
そして、「さざれ石」や「天照皇大神」の掛け軸が飾られた日本間があり、
近々台南市に作る予定の東方法商学院大学に、2トンもあるさざれ石を置いた
「大和公園」や、日本の書籍の蔵書では台湾一を誇る「大和文庫」も計画中
であるという。

「台湾人と日本精神」蔡焜燦著より




*********************************************

創氏改名は高嶺の花

パート2・357 名前: 文責:名無しさん 投稿日: 02/03/17 06:26 ID:rS7XxCCB

日本軍と言えば、かならず「無差別虐殺、暴行、掠奪、強姦、放火」
という決まり文句がつく。
こういった歴史叙述は、どこかの「抗日史」の孫引きか創作であろう。
しかし台湾人の私かられみば、それは決して正しい歴史認識ではない。
差別はいかなる時代でも社会でもあるものだということは前述した。
しかし、神社参拝、創氏改名の強要は事実に反する。
台湾人は朝鮮人と違って、創氏改名を申請しても却下される場合が
多かった。
高嶺の花であったのだ。
強制どころではない。
私の幼いころは、神社に参拝しようとしても神様がいる神聖なところ
なので、大人と一緒でないとなかなか参拝できない場所であった。

「韓国人の「反日」台湾人の「親日」」黄文雄



*********************************************

志願者が殺到

パート2・498 名前: 文責:名無しさん 投稿日: 02/03/27 00:37 ID:LWCVxMPl

台湾では、昭和十七年になって、陸軍特別志願兵制度ができた。
 「この志願兵制度が発表されるや、約千名の募集人員に対し、た
 ちまち四十万人もの志願者が殺到した。その競争率たるや実に
 四百倍に達したが、翌年にはこれをはるかに上回る六百倍を記録
 している。こうした応募者の中には血書嘆願する者も多く、その
 決意は内地の日本人に優るとも劣らぬものがあった」 

 「「台湾人元志願兵と大東亜戦争」の著者である鄭春河氏が血書
 嘆願し、大東亜の戦場へと赴いたのが昭和十七年の第一次募集の
 ときであり、こうして多くの台湾人青年が(祖国)を護るために
 志願していったのである。昨今、日本で強制化否かが取りざたされ
 た「台湾少年工」も、彼らは決して「強制徴用」で日本につれて
 いかれたのではない。このことは「台湾少年工と第二の故郷」に
 詳しいが、台湾の公学校を卒業したおよそ八千人の少年達が自ら
 志願して日本に行ったのである。(略)だからこそ、本の題名に
 もあるように、高座海軍工廟のあった神奈川県大和市を「第二の
 故郷」と呼び、市の公園に「台湾亭」という東屋を寄贈して、いま
 でも心暖まる交流を続けているのである」

 「(略)黄氏は、台湾人より早く志願兵制度が導入された朝鮮の軍人
 志願者のデータを紹介している。それによると、1942年(昭和十七年)
 の募集人員4千77名に対して志願者は254万273名で、その倍率は約
 六十二倍。同じ年の台湾人志願兵倍率(四百倍)には遠く及ばない
 までも、高い倍率で志願者が殺到したことには相違ない」

(略)この志願兵制度が発表されるや、約千名の募集人員に対し、
 たちまち四十万もの志願者が殺到した。その競争率たるや実に四百倍
 に達したが、翌年にはこれをはるかに上回る六百倍を記録している。
 こうした応募者の中には血書嘆願する者も多く、その決意は内地の
 日本人に優るとも劣らぬものがあった。(略)
 「台湾人元志願兵と大東亜戦争」の著者である鄭春河氏が血書嘆願し、
 大東亜の決戦場へと赴いたのが昭和十七年の第一次募集の時であり、
 こうして多くの台湾人青年が(祖国)を護るために志願していった
 のである。
 昨今、日本で取りざたされた「台湾少年工」も、彼らは決して「強制
 徴用」で日本に連れていかれたのではない。
 このことは「台湾少年工と第二の故郷」に詳しいが、台湾の公学校を
 卒業したおよそ八千人の少年達が自ら(志願)して日本に行ったので
 ある。(略)
 だからこそ、本の題名にもあるように、高座海軍工廠のあった神奈川県
 大和市を「第二の故郷」と呼び、市の公園に「台湾亭」という東屋を
 寄贈して、いまでも心暖まる交流を続けているのである。
--台湾人と日本精神/蔡焜燦--



*********************************************

台湾少年工

パート2・500 名前: 文責:名無しさん 投稿日: 02/03/27 00:38 ID:LWCVxMPl

 「この「子供強制徴用の実態」に関して、あたかも「歴史発掘」の
 ように、韓国では一時、歴史捏造に狂奔した。「東亜日報」は、「
 神奈川県で十二から十八歳の台湾少年工八千名が、軍需工場で、強制
 労働させられていたことが明らかになった。しかし、八歳の少年強制
 労働と火葬というのは、ひょっとすると日本全国で初めて確認された
 ことではないだろうか」と日本の大学教授の発言を引用して報道して
 いる。(略)実は、台湾少年工についての歴史捏造と歪曲ほどひどい
 ものはない。戦争末期、台湾から日本に来た八千名の台湾少年工は、
 主に名古屋、大和市、群馬県の戦闘機工場で働いた。彼等は「強制連行
 」ではなく、厳しい筆記試験に合格、さらに身体検査にも合格、校長
 と両親の許可を得て来日したものであった。(略)彼等は現在「高座
 会」をつくり、生存者は七十歳前後になっているものの、なおも五千
 人以上の会員を有している。会誌も発行されている。(略)彼等は日
 本人の友人との絆が強く、九十四年の大和市の大会では、二千人以上
 の会員が台湾から来日し、大和市は、交通大渋滞になるほどであった。
 当時、日本のマスコミは、彼等を「強制連行」と報道したため、自尊
 心を傷つけられた会長が会員全員を引き連れ、新聞社へ抗議に行くと
 いう話もあったほどだ。戦争末期の米軍空襲下でともに働いてきた台
 湾人と日本人は、上官と部下の関係のみでなく、その絆もなかなか強い
 。私は台湾から来た昔の少年兵を連れ、かつての日本人仲間の病気見
 舞いや、老後の不遇者の生活の面倒に奔走する戦友を案内したことも
 あった」
--韓国人の「反日」台湾人の「親日」/黄文雄--



*********************************************

「六士先生」の記念碑
パート2・528 名前: 文責:名無しさん 投稿日: 02/03/27 01:05 ID:paCaINfw

台湾には「六士先生」の記念碑、というのがある。
「六士先生」とは約百年前、台湾の北部士林で、土匪に襲撃され殺
された日本人教師達のことだ。
しかし、戦後中国人によって壊され、銘文をセメントで塗りつぶされた。
けれどもその後、台湾人が銘文をドライバーで復元し、拓本までつくら
れた。
百年以上たって、最近校友会によって立てられた新しい墓碑も、ちょっと
でも気を緩めていると、中国人に破壊されてしまう。
たいてい遺物が破壊されると、「あのブタ(中国人)野郎め、また
やりやがった」と関係者は罵るが、中国人の日本人遺物打ち壊し行為は
、今日でも繰り返されている。

「韓国人の「反日」台湾人の「親日」/黄文雄」より




*********************************************

日本的気配り

パート2・532 名前: 文責:名無しさん 投稿日: 02/03/27 01:09 ID:pCY2fATd

「強制連行」とは、じつは大陸文化そのもので、戦争や動乱がある
たびに、住民が「強制連行」されたことは、中国史にも、朝鮮史に
も繰り返し書かれている。
しかし、日本文化は、中国社会や朝鮮社会とはかなり異なる。
近代になって、台湾にしても、朝鮮半島に対しても、いかなる公的
な義務労働であろうとも、多かれ少なかれ、工賃を払うのが日本的
やり方であった。
中略
台湾領有初期の日本軍の征伐戦争・戦記、日記を見ると、住民を掠奪
しながら敗退、逃亡した清国兵士に対してさえも、米と銭を与え、船
で港から大陸へ送還した。
地方の村長、長老を集めて訓示した後でも銭を与え、細かい気配りを
していた。
そのような日本的気配りは、中国や朝鮮半島では、絶対に見られない
ことだ。

「韓国人の「反日」台湾人の「親日」/黄文雄」より



*********************************************

「愛国乙女サヨン」

パート2・536 名前: 文責:名無しさん 投稿日: 02/03/27 01:17 ID:pCY2fATd

駐在警官と住民との親密な交流が高砂族の人々の心を開き、台湾総督府の統治政策の
基盤となっていたことを忘れてはならない。
「愛国乙女サヨン」の物語は、そんな駐在警官と高砂族の少女の美談として、今も
語り継がれている(中略)。
田北警手は真心で蕃社の人々に接し、そして愛情をもって子供たちを教育したことで、
地元の人々から尊敬を集め慕われた。(中略)
応召の日(九月二十七日)田北警手は台風が吹き荒れる山道を下山しなければならな
かったが、当時十七歳だったサヨンは田北警手との別れを惜しみ、彼の荷物運搬を
申し出た。(中略)
そして丸木橋を渡ろうとしたその時、鉄砲水がサヨンを襲ったのである。
激流に飲み込まれたサヨンは、一行に「さようなら」と手を振りながら流されていった。
(中略)
後に、このことが第十五代台湾総督府、海軍大将、長谷川清の耳に入り、総督の指示
で、「愛国乙女サヨンの鐘」と刻印された釣り鐘が造られ、さらにサヨンの遭難場所に
は「愛国乙女サヨン遭難之地」の石碑が建立された。
当時、忠誠心あふれる愛国乙女サヨンの物語は、映画(李香蘭主演)にもなり、「サヨ
ンの鐘」(西条八十作詞、古賀政男作曲)という歌になって、レコードで売り出され、
台湾では今でも「沙蓉鐘声」として歌い継がれている。

「台湾人と日本精神」蔡焜燦著より




*********************************************

「友愛グループ」

パート2・539 名前: 文責:名無しさん 投稿日: 02/03/27 01:19 ID:yNgY8qJe

常に日本語のラジオ番組を聴く父親は、中国製のラジオが故障すると、日本製じゃないから
壊れるんだと愚痴り、テレビが普及した後も子供たちとスポーツ番組を観ながら中国との
試合で日本チームを応援する。
この徹底した日本びいきの父親の夢は、日本に行って皇居と富士山を見ることだった。(中略)
台湾には、そんな日本語世代の人々が集う「友愛グループ」という文化サークルがある。
1992年10月、日本の文化人と親交を深める陳絢暉氏とその弟、陳燦暉氏が発起人となって、
台湾にかつての日本語を残そうと「友愛日本語クラブ」を旗揚げした。

この「友愛グループ」には、台湾の(日本語族)の象徴ともいうべき呉建堂氏
(故人)も参加していた。
先の陳絢暉氏と同じ大正十五年生まれの呉建堂氏は、台湾人として唯一、菊池
寛賞を受賞した日本語の達人であった。
呉氏は、「台北歌壇」を主催し、永く台湾の地に日本の「短歌」を残そうと
尽力した偉人であった。
その短歌に対する熱い思いを表わした歌がある。
「万葉の流れ この地に 留めむと 生命のかぎり 短歌詠みゆかむ」
「孤蓬万里」という雅号を持つ呉氏の作品は実に一万首を超え、その編著作
「台湾万葉集」(全三巻 多くの台湾人が詠んだ歌が収録されている)は日本
でも集英社から刊行され、高い評価を得ている。
(中略)
医学博士であり、また剣道八段の腕前を持つ呉建堂氏は、東京における国際親善
剣道大会(昭和四十二年)で、当時皇太子妃であられた皇后陛下と短くも言葉を
交わされ、後に「台湾万葉集」を献上した。
御返礼として宮内庁の藤森長官は、現皇后陛下のご指示にもとづいて「折々のうた」
という新聞記事を呉建堂氏に送られたのであった。
そして、1996年1月12日、皇居における宮中歌会始に呉建堂氏が招かれたのである。
外国人が歌会始に招待されること自体たいへんなことであり、そのニュースを耳に
した台湾の日本語族の人々は驚喜した。
「宮中の 歌会始に 招かれて 日本皇室の 重さを思ふ」
「国思ひ 背の君思ふ 皇后の 御歌に深く 心打たるる」
1998年12月、この偉大な歌人・呉建堂氏も帰らぬ人となった。

「台湾人と日本精神」蔡焜燦著より



*********************************************

謝罪よりも・・・

560 名前: 文責:名無しさん 投稿日: 02/03/27 01:51 ID:zG65XDmn

「1999年5月22日、台湾で行われた後藤新平、新渡戸稲造の業績を称える
 国際シンポジュウムで、昭和大学の黄昭堂名誉教授は「帝国主義は当時の
 世界の潮流であり、日本だけが謝る必要などない」と機先を制した。とこ
 ろが、それでも日本側代表は、「日本による戦前の台湾統治で、日本は善い
 こともしたが、悪いこともしたであろう。そのことについて謝罪したい。
 我々はただお詫びするしかありません」と口にしたのである。このシンポジ
 ュウムで綜合司会を務めることになった私は、「・・一つだけ言っておきま
 すが、日本が台湾へ謝罪する必要はありません。それよりも隣の大きな国と
 戦っている台湾を声援してください。」と日本側の謝罪をたしなめた」
--台湾人と日本精神/蔡焜燦--




*********************************************

八田與一の銅像

パート3・81 :名無し :02/03/31 07:11 ID:u7ky4DRq
 八田與一といっても日本ではだれもピンとこないだろうが、台湾ではいまも農業
用水建設の恩人として人々の心の中に生き続けている。台南県烏山頭にはいまもこ
の明治生まれの日本人の銅像が残り、台湾農業に尽くした逸話は中学校の歴史教科
書『認識台湾』に登場し、学校教育の場でも語られ始めている。

http://village.infoweb.ne.jp/~fwgc0017/9907/990718.htm


 銅像は最初昭和6年に建てられたが、戦争末期の昭和19年(1 944年)、軍
の命令で銅の供出が叫ばれるなかその姿を消し、誰 もがその存在を諦めていた。と
ころが、戦後その銅像がたまたま嘉 南農田水利協会により発見されたのである。し
かし時代は日本色を 一掃し強権で台湾を支配化に置こうとした国民党白色テロの時
代。 そのような時に日本人の銅像を隠し持つことは命がけであった。そ こで銅像
は八田家族がかつて住み当時空き家となっていた家のベラ ンダに置かれたが、やが
て嘉南の農民がこの家の前を通る時、人々   は手を合わせて拝むようになった。
 この銅像が再び日の目を見たのは、蒋介石も既に亡くなり、台湾 経済が豊かにな
り始め政治的にも民主化の芽が芽生え始めた蒋経国 時代の昭和56年(1981年)
1月である。戦時下に持ち去られ て以来37年ぶりに銅像は元の位置に復活した。
台湾に残る唯一の 日本人の銅像である。
 烏頭山ダムを見下ろしながら建つその銅像と墓の前で、八田與一 の命日から今日
まで追悼式はただの一度も欠けることなく、誰から の命令や指示を受けることなく、
地元の人々の手で続けられている。
 昭和54年(1979年)八田與一の長男晃夫氏が両親の墓参り のため訪れた時
には、81歳になるという老人が老妻に手を引かれ 杖をついてわざわざ会いに来て
電気技師として烏頭山で仕事 をしました。今でも八田所長の下で仕事をした事を生
涯の誇りとし ています。一言、私の気持ちを息子さんにお伝えしたかったったとい
う。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~edamura/mandan.html#hatta




*********************************************

中国で会った台湾人

パート3・114 :地震見舞い :02/03/31 22:07 ID:BE0Ylzrt

もう13年近くも前になるが、ソ連東欧が崩壊し、俺は
「共産国家なるものを見る機会はこれが最後かもしれない」と考え
中国への旅行にいった。もっとも内容は完全に観光だったわけだが(w

さて、その中国旅行で桂林に行ったときのことだ。船で川を下る
ツアーに参加したところ、同船したおっさんから流暢な日本語で
声をかけらえた。
「君は日本の方ですか?」

そうだと答えると、そのおっさんは少し小声になって自分は台湾から
旅行で来たのだといった。俺はあまりに上手な日本語に驚き、戦前
日本が台湾を占領していたことを思い出した。

「日本語がお上手なのは、占領教育のせいですよね。何だか申し訳
ないような気持ちになります」その頃の俺はマスコミに洗脳された
学生だったので、そんな風におっさんに言った。すると、おっさんは
「あなたのような若い人が謝る必要ありません。それに日本は
台湾で沢山いいことしました。道路作ったり、国造りの基礎をしてくれた。
ほとんどの台湾人は日本に感謝しています」と笑ってくれた。

ところで、おっさんが俺に声をかけてきたのは、
実は「ガイドブック」が目当てだった。今はどうかしらんが、
台湾では政治的理由で、中国本土の旅行用ガイドブックは
ほとんど売ってないらしい。それで日本語OKのおっさんは、
俺のガイドブックを売ってくれと頼んできたのだ。
俺は本が既にかなり汚れていたので、昼飯だけ驕ってもらって
本は進呈した。

その昼飯の席で、台湾の人は日本を恨んでないのに、他の地域では
どうしても恨まれているのでしょう?と質問したが、
「他の国のことは判らないよ」とかわされてしまった。大人の対応。




*********************************************

台湾の対日感情

パート3・163 :親中親韓 :02/04/01 19:32 ID:2MkmQJ0C

台湾に親日の人が多いのは国民党支配が苛烈だった事もあるのかもね。
大学の台湾出身教授(60歳くらい?)とお茶したときに色々聞いた。
教授いわく、軍政は嫌だったけど日本はインフラを整備してくれたから、
まだよかった。
国民党は思想統制で何万人も連れて行き、ほとんどみんな行方不明に。
この教授のお兄さんも何十年も前に国民党に連れて行かれてそのまんまらしい。
この教授自身、国民党の思想審査せいで留学先の日本から
台湾に帰るに帰られず、結局日本にいついてしまわれたとのこと。
そういうことがあって日本のほうがだいぶましだった、と思えるのがあるのかも。
この先生自身、日本が建てた台湾大学(旧台北帝国大学ね)出身ということもあって
そういう考えなのもあるかもしれませんけど。

ちなみにこの教授が思想審査に引っかかったのは
日本での政治活動のせいだったらしい。
何年か前の総裁選では当時から思想を同じくする台湾大学時代の後輩が
立候補したので応援に台湾に帰ってたとか。

そんなこんなで陳水扁氏はこの教授が台湾に帰ると酒を飲みに来る。



パート3・185 :文責:名無しさん :02/04/02 00:49 ID:mtvZU3z5

>>163
(略)台湾社会の親日感情を単純に蒋介石独裁政治への反発から
生まれたものだと断定するのは誤りであろう。
政治意識の薄い一庶民の私の父親も、台湾映画「多桑」の主人公
と同じように、日本に文化的郷愁を持っている。
父の日本文化への憧憬と親日感情は決して蒋政権への反発だけで
解釈できるものではない。
日本人として教育された日本語世代の台湾人が、その身に付いた
「日本精神」に誇りを持つことは極めて純粋な気持ちである。
その誠実な親日感情を単純に政治に翻弄された結果として捉える
のはいささか皮相な感じもする。
戦後の国民党政権は、台湾で中国の共産党政権と同じ視点で反日
教育を行ってきた。その影響もあり、世代の違いによって台湾人
の対日感情も違ってくる。
台湾のマスコミの80%は外省人が支配しているから、マスコミの
言論のみを見ると、反日的なのは当然である。
それにより若い台湾人の中にはそのような言論に同調する者が少
なくない。
しかし、新世代の台湾人は旧世代の台湾人のように日本文化に惚れ
込むことこそ少なくなったが、概して日本に好意的であるのも
事実だ。
現在60代中心の在日台湾知識人は、自世代の対日観と台湾全体
の対日感情を忠実に日本社会に伝えるように努力していると私は
思う。(略)
そのような在日台湾人の親日的な言動を「ある種の情報操作」と
解釈するのは、正に現在の日本人の自信喪失の表れではなかろうか。

「正論」2001・4/「在日台湾人の情報操作はあり得ない」林建良



*********************************************

台湾人慰安婦

パート3・191 :文責:名無しさん :02/04/02 00:56 ID:9SY7jK35

引き揚げ者の中には、海南島から日本兵と共に引き揚げてきた二十名ほどの台湾人
慰安婦の姿もあった。
彼女達は我々と同じキャンプに収容されて台湾への帰国を待っていた。
彼女らは口々に、「海南島は儲かるし、それよりも兵隊さんが喜んでくれたんです」
と語っていた。
そうした生の声には、日本で騒がれるような強制連行の(悲劇)などは存在しなかっ
たことを、私のこの耳がしっかり聞いている。

(略)1999年、8月号の「正論」に掲載された許文龍氏(実業家であり、李登輝総統
の国策顧問)の記事も、まさしくそんな氏の客観的な歴史観と実行力の賜物だった
と言っていいだろう。
日本でくすぶり続ける慰安婦の「強制連行」なる問題に首を傾げた許氏は、戦時中
に慰安婦だった女性を集めてその事実を明らかにしたのである。
もちろん結果は、日本の一部のマスコミや学識者がヒステリックに訴えるような
「強制連行」なる事実は存在しなかった。

「台湾人と日本精神」蔡焜燦著より




*********************************************

岐阜陸軍整備学校隊

パート3・196 :文責:名無しさん :02/04/02 01:18 ID:9SY7jK35

夢にまで見た岐阜陸軍整備学校隊に入校してみると、そこには
台湾で経験したような差別などというものは、まったく存在し
なかった。
むしろ中隊長、池田忠義中尉、区隊長、中澤和男少尉など上官
たちからかわいがられたことが思い出される。
本来、陸軍航空整備学校は飛行機の地上整備員の下級士官を養成
する学校なのだが、こうした専門分野よりもむしろ一般教科の
勉強に多くの時間が割かれていた。
このときの数学教官、時埼忠彦少尉及び田中克巳見習士官も、
我々生徒に温かく接してくれた上官だった。
食事の時間には我々生徒が上官の配膳を準備することになるので、
普段我々を心からかわいがってくれる班長、安原万寿太軍曹に
山盛りの飯をもってゆくと逆に叱られたものである。
それは、自分の食べる分を少しでも我々生徒に食べさせてやりたい
という親心からであった。
奈良教育隊では、伝染病などを防止するため、「ハエ取り競争」
という衛生競技があり、これに負けると夜間の不寝番という罰則
が待っていた。

しかし安原班長は我々の身代わりを買って出てくれたのである。
「お前達は、必死になってハエなど採らんでもいい。その分しっかり
勉強せい。学生の本文は勉強だ。罰則の不寝番は俺がやってやるから
心配するな」
班長は、我々に勉強する時間を少しでも与えようと、罰則を引き受け
てくれたのだった。
そんな班長を不寝番に立たせては申し訳ないと頑張った我が班は、
つねに中隊一位という成績を収めていたことが面白い。
戦後、軍隊は地獄のような場所であるかのように吹聴する輩もいる
ことは承知しているが、少なくとも岐阜陸軍航空整備学校奈良教育
隊は、それには該当しないことを申し添えておきたい。
「台湾人と日本精神/蔡焜燦」



*********************************************

芝山巌神社
パート3・198 :文責:名無しさん :02/04/02 01:21 ID:3Y4Rgx+j

当時文部省学務部長心得であった伊沢修二は「教育」をあらゆる
統治政策に優先させることを進言し、七人の優秀な人材を引き連れて
台湾にやってきた。(略)
そんな折り、近衛師団を率いてやってきた北白川宮能久親王が、
台南でマラリアに倒れ不帰の客となった。
伊沢修二は、七人のうちの一人と共に親王の棺に付き添って帰国する。
世に言う「芝山巌事件」の悲劇は伊沢の留守を襲った。
1896年1月1日、元旦の祝賀に参加すべく出掛けた六人の教師を突如
暴徒が取り囲んだ。
時に台湾民主国の宣言をもって日本統治に反対する勢力の抵抗活動
が頻発していた頃である。
六人の教師はふるむ様子をみせず、彼らに教育の枢要を説いた。
しかし、そうした懸命の説得も聞き入れられず、血気に逸る暴徒は
日本人教師達に襲い掛かり、全員を惨殺してしまう。(略)
その後、殉職した六人の教育に対する精神が人々の間で語り継がれ、
そして「六士先生の歌」もつくられた。

やよや子等 はげめよや
学べ子等 子供たちよ
慕へ慕へ 倒れてやみし先生を
 
歌へ子等 思へよや
すすめ子等 国のため
思へ思へ 遭難六士先生を

1930年には、事件があった芝山巌に芝山巌神社が建てられ、六士先生
の他に、その後台湾で殉職した内地人(日本人)と本島人(台湾人)
の教育者が祀られた。
こうして芝山巌は、台湾の教育のメッカと呼ばれるようになったのである。

「台湾人と日本精神」蔡焜燦より




*********************************************

台湾近代化の父

パート3・201 :文責:名無しさん :02/04/02 01:27 ID:3Y4Rgx+j

「台湾近代化の父」

後藤新平は、あくまで「生物学の原理」に従って台湾統治を行うべき
であると主張しており、「ヒラメの目を鯛の目に付け替えることは
できない」という有名な喩えが残されている。
こうしたことは、全島の旧習調査からアヘン吸飲習慣を把握した上で
、アヘン患者を徐々に減らしていった手法にもあらわれている。
アヘンを専売制にし、中毒、常習者に限って販売するが、新たに吸飲
するものは厳罰に処せられた。
これにはアヘン患者を自然に減少させる狙いがあった。
こうして当初全島人の6パーセントにものぼった、中毒、常習者は
1941年までに0.1パーセントにまで激減していったのだ。
悪習といえども他民族の習慣を尊重しながら、無理なく時間をかけて
撤廃していったその手腕は実に見事であった。

「台湾人と日本精神」蔡焜燦著より



*********************************************

歴史の歪曲に不快感

パート3・202 :文責:名無しさん :02/04/02 01:30 ID:3Y4Rgx+j

繰り返すが、内地で行われていた教育と同じ教育が日本の最南端の台湾で行われていた
のであって、(強制)などという卑しい言葉は不適切であるばかりか、我々台湾人は
そうした歴史の歪曲に不快感を覚えることも知っておいていただきたい。

戦前の台湾では、田舎の人々が警官を「大人(タイジン)」と呼び、決して流暢
とはいえない日本語で「タイジン、タイジン、私の家で美味しい大根が採れたから
持って帰っておくれ」と声をかけると、警官はありがたく頂戴した。
また、「今日は鶏を一羽しめたから、半分どうかね?」と夕食の食材を指しださ
れれば、喜んで持ち帰ったものだ。ある意味で、そうした日常のやりとりは地元
の人々との触れ合いであり、そうすることでコミュニケーションが生まれた。
ただし、日本の警官は、どんなことがあっても賄賂は受け取らなかった。

「台湾人と日本精神」蔡焜燦著より




*********************************************

尊敬する日本人教師
パート4・30 :文責:名無しさん :02/04/08 03:00 ID:g530DcQi


     尊敬する日本人教師

 許文龍氏は、昭和3(1928)年、日本統治時代の台湾・台南市に
生まれ、台南高等工業付属工業学校に学んだ。戦後、玩具、日用
雑貨製造を始め、現在、プラスチックの原料となるABS樹脂製
造では、世界一になっている。

 自社の病院や消防車を地域住民に役立て、また時価数百億円の
美術品、楽器などを集めた博物館を作って、一般公開している。
会社に来るのは、週2日だけで、あとは海で釣りをしているとい
う。

 許氏は中学の時、大友先生という日本人教師に教わった。ある
クラスに貧しい家の子がいて、いつも弁当はイモばかりだった。
これじゃ、栄養失調になると、見るに見かねて先生はこう言った。

 先生はイモが好きだから、先生の弁当と交換してくれないか

 そう言って、先生は何度も、自分の弁当をその子に食べさせた。
子供への愛情、自尊心を傷つけまいとする思いやりに許氏は涙を
流した。

 日本が戦争に負けると、総督府から給料が出なくなった。しか
し、先生方は学校の倉庫にたくさんある物資には手をつけずに、
道ばたでこもを被って座っていたという。それを知って「日本人
の潔さ」だと、感動したという。

「素晴らしい日本人」、許文龍、正論、H11.8



*********************************************

日本語を残そう
パート4・32 :文責:名無しさん :02/04/08 03:02 ID:g530DcQi

                    台湾・陳絢暉さん

(陳絢暉さんは、台湾に美しい日本語を残そうと8年前に結成
された「友愛グループ」の中心人物で、関東日華親善協会の常
務理事を努められている。)

 昭和10(1935)年4月21日の早朝6時すぎ、台湾新竹州南
部から台中州北部にかけて、突然強烈な大地震が起きた。

 その規模は、明治39年3月17日の嘉義地方の烈震と同程
度で、震源は浅いが、有感覚区域は殆ど全島を被い、さらに対
岸の廈門、福州方面まで広がった。今ふうに言えば、マグニチ
ュード7.5くらいではなかろうか? 震央近くの新竹、台中
両州下では、死者3,276人、重軽傷者12,187人、全
壊家屋20,709戸、半壊及び破損家屋62,314戸とい
う甚大な災害を醸した。のみならず断層、陥没など顕著な地殻
変動を生じた点で、全島民はすっかりパニックに落ち込んでし
まった。

 この烈震に、当時公館公学校3年生だったセン(澹のさんず
いなし)徳根(とっこん)が、たまたま外に出ていたところ、
付近にあった廟宇の下敷きになった。瀕死の重傷を受けた彼は、
生死の境を彷徨いながらも終始国語(日本語)を常用し、恩師
の名を呼びつづけた。人づてに聞いて駆けつけた先生は、彼が
臨終にさいし、あえかな声ではっきりと「君が代」を奉唱して
から事切れたのを見て感涙にむせんだ。故に当時の人呼んで
「君が代少年」と称賛し、記念に銅像を建てて校庭に飾ったが、
今次大戦後はすっかり取り払われてしまった。

         岡山国民文化懇談会・倉敷文化懇談会発行
 機関紙「まほろば」第160号(平成12年3月1日)から




*********************************************

英霊に捧げる
パート4・518 :文責:名無しさん :02/04/22 12:31 ID:tl8+gMWv

   英霊に捧げる
  南海の荒海に屍されし英霊よ、故国台湾台北州
 烏来の聖地に立つ、忠魂碑に降臨して、日台青年
 交流団の捧げる、感謝と哀悼の誠を受けられよ。
  顧みれば五十数年前、英霊各位は、白色人種の
 植民地政策から、黄色人種と黒色人種を開放する
 偉大なる理想実現のため、第二次世界大戦に従事
 なされた。抑々東洋平和の安定を確保し、以て世
 界平和に寄与するのは、日本建国の精神であった。
 しかし黄色人種と黒色人種は、白色人種の植民地
 政策の迫害を被り、教育を受けられず、殆ど未開
 発の原始生活に留まって居た。これらの諸民族を
 開放し、自主独立の国家を建て、平和且つ平等に
 生活ができるよう指導するのも、又日本に課せら
 れた重大使命であった。
  昭和十六年十二月八日、日本は破邪顕正の旗を
 押し立て、国運と国力を傾注して、白色人種追放
 のため、東南アジアに進出した。正に青天の霹靂
 である。白色人種の数世紀に亘る、世界制覇の夢
 は醒め、難攻不破の厚い壁は遂に崩潰した。英霊
 各位は赤道直下の炎熱焼くが如き猛暑と、悪性伝
 染病を克服なされ、強敵白色人種と、勇猛果敢に
 激闘なされ、これらを追放し、新生国家の基礎を
 確立された。殊に高砂義勇隊は、ジャングル伐採
 の先頭に勇み立ち、我が軍が苦戦に陥るや、高砂
 挺身隊はジャングルを利用して、敵陣に神出鬼没
 して、敵の軍心を攪乱し、勇敢に敵陣に切り込み、
 華々しく戦い、遂に護国の英霊となられた。英霊
 各位は尊い命を犠牲になされ、世界人類の自由平
 等のため、多大の貢献をなされた。其の偉大なる
 理想は、花を咲かせ実を結んだ。終戦後、小民族
 は開放され、相次いで独立した。今、全世界の独
 立国家は、合計百八十五カ 国となった。
  各民族は、共存共栄の信条の下、自由平等且つ
 幸福に暮らせるようになった。此の偉業は、世界
 の一頁に刻まれ、太陽の光と共に、天攘無窮に照
 り輝きます。そして英霊各位は平和の神として、
 全人類から敬愛尊敬されます。
  本日、日台青年交流団は日本青年を代表し、感
 謝と哀悼の誠を以て、英霊各位を慰う目的であり
 ます。
  尚、一九八九年日本政府は台湾人元日本兵、戦
 没者遺族補償費と、戦傷者の慰問金交付を発表し
 た。一人当たり日幣二百万円です。台幣に換算す
 ると約四十万元です。金額は微々たるものですが、
 日本国の誠意として受け取れます。遺族の生計に
 多少役立つと思います。
 英霊各位本当にご苦労様でした。何卒、安らかに
 御安息ください。
 最後に御冥福をお祈り申し上げます。
            一九九六年五月十二日
         台湾中日海交会 呉 宗姓



*********************************************

あなた方旧社会党は
パート4・541 :文責:名無しさん :02/04/23 10:42 ID:ojlHOoFV

あなたは台湾へは行かれたことがありますか?
台湾では小林よしのりの『台湾論』が話題となりましたが、
本省人の歐吉桑世代を中心に肯定的な意見も多数あること
を御存意ですか?
(先日台北で行われた「世界台湾人大会」では『台湾論』
を支持する声明が発表された)
あなた方旧社会党は、中共や鮮人のことには熱心ですが、
なぜもっと台湾に目を向けないのですか?
蔡焜燦先生や、鄭春河先生、許文龍先生、金美齡女史など、
社会党に都合のいいことを言って貰えないからですか。
中華民国国民党政権を独裁政権と罵っておきながら(否定は
しませんが)、それ以上の中共や北鮮の独裁暴政には口を噤
んで友好を称える。
台湾独立も支那のチベット侵略、新疆の核実験も中共の御機
嫌を窺って何も言わない。
これ以上の偽善が他にありましょうか?
あなた方のような、日本の侵略が云々と云っている輩がどれ
ほどかつての台湾同胞の心を傷付けているのか気づかないの
ですか?
彼らは、かつて日本人であったことに誇りを持っているのです。
自ら志願して大東亜戦争に参加したのです。
あなたは、国旗や国歌にも反対の様ですが、台北の烏来にある
「高砂義勇軍慰霊碑」には毎日日章旗が翻っていることを御存
知ですか?

台南の「飛虎将軍廟」では毎日堂守さんが君が代と海ゆかばを
うたって日本の兵隊さんを祀っていることを御存知なんですか。
台湾の戦友会の年老いた方々が毎年靖国神社に参拝にいらっし
ゃっていることを御存知なんですか?
知っていたら、あなたの様な国会活動は出来ませんよね。
最後に、ある台湾独立運動家の言葉を贈ります。
「日本が敗戦したと同時に、我々台湾も敗戦しました。靖国神
社には台湾人の元日本兵士二万八千柱が眠っておられます。
私はもちろん台湾人の英霊だけでなく、すべての英霊に黙祷を
捧げました。
 英霊たちは、侵略しているんだ、という気持を持ちながら戦い
に出られたのでしょうか。
違います。多くの兵士は、自分の祖国を守るために、あるいはこ
れからのよりよき世界を創るために、命を捧げられたのです。
 日本政府は台湾を無視しつづけて、どうして中共の顔色ばかり
窺っているのですか。
これが二万八千人の台湾人が尊い命を捧げた国の正体ですか。
日本の国会が謝罪することは、日本の戦死者の冒涜ばかりでは
ありません。
台湾人の戦死者への冒涜であることも銘記してもらいたいと思い
ます。」     (平成六年八月十五日、黄昭堂先生)



*********************************************

戦後教育の悲しい結末
パート4・559 :文責:名無しさん :02/04/23 11:04 ID:405beY6j

「諸君(台湾人兵士)はよく国の為に戦ってきた。しかし、今ここで
軍の命令どおりに犬死にすることはない。祖国台湾には諸君らの生還を
心から願っている家族が待っているのだ。私は日本人だから責任はすべて
私がとる。全員、米軍の捕虜となろうとも生きて帰ってくれ」
(「捏造された日本史」黄文雄)
そう言って、広枝音右衛門、海軍巡査隊長は、台湾人の命を
保証するよう米軍と交渉した後、フィリピンの地で自決した。
昭和五十八年、小隊長をつとめた劉維添はかつての隊長の自決の地を
訪れ、広枝隊長終焉の地の土を集め、茨城県に住むフミ未亡人の手に
わたした。
広枝隊長は獅頭山の権化堂に神様として祀られ、鬼籍の人となった夫
人も、広枝隊長の位牌とともに、かつての部下だった新竹警友会の人た
ちの手によって権化堂に祀られた。
「捏造された日本史」黄文雄
「(略)内地で行われていた教育と同じ教育が日本の最南端の台湾
でも行われていたのであって、(強制)などという卑しい言葉は
不適切であるばかりか、我々台湾人はそうした歴史の歪曲に不快感
を覚えることも知っておいていただきたい」
「日本の戦後教育のごとき、(反日教育)が生むものは、祖先への
軽蔑と他人を憎悪する卑しさだけであり、決して愛する心を育まない。

パート4・560 :文責:名無しさん :02/04/23 11:05 ID:405beY6j

現代日本の青少年による凄惨な事件の数々や、教育現場の荒廃はこう
した戦後教育の悲しい結末であろう。もっとも、歪曲した歴史観に
よって自国をさげすむことは、実に残念であるばかりか、そうした
考えに正義感を覚える輩は、ただ(無知)としかみなされないことも
肝に命じておく必要があろう」
「台湾人と日本精神」蔡焜燦著より




*********************************************

歴史を共有した同じ国民
パート4・563 :文責:名無しさん :02/04/23 11:06 ID:405beY6j

■1.歴史を共有した同じ国民■

 司馬遼太郎は「小生は七十になって、自分は『街道をゆく』
の『台湾紀行』を書くために生まれてきたのかな、と思ったり
しています」と言っていた。

 台湾の日本統治時代に育った人々の間で、「台湾紀行」はか
つての祖国・日本が再び台湾に関心を寄せてくれたと大変な熱
狂を呼び起こした。李登輝前総統の曽文恵夫人は、司馬遼太郎
が亡くなった時に、次の追悼の和歌を詠まれた。もちろん日本
語で。

今もなお心にうかぶ台湾紀行夢と希望の国なれかしと

 この「台湾紀行」に、ガイド役として登場するのが、蔡焜燦
(さい・こんさん)氏である。平成5年1月2日、取材のため
に台北を訪れた司馬を、蔡さんは日本陸軍の「歩兵操典」その
ままの挙手の礼で出迎えた。終戦時、蔡さんは奈良で陸軍航空
整備学校に学んでいた。その時の教官が司馬と同期に当たるた
め、「上官」として敬礼で迎えたのである。

 司馬はすこしためらい勝ちに答礼したが、なかなか挙手の手
を下ろさない。蔡さんは直立不動のまま「司馬先生、そちらが
上官だから先に下ろしてください」と言わねばならなかった。
以後、この敬礼は二人だけの挨拶として続けられた。司馬と蔡
さんはかつて歴史を共有した同じ国民であったのだ。

■2.「日本人」として生きていく道■

 明治28(1895)年5月、日清戦争の勝利により台湾が日本に
割譲されると、日本軍は住民に2年間の国籍選択猶予期間を与
え、清国を選ぶものは自由に大陸に引き揚げることを認めた。
蔡さんの父親はこの時、16歳。一度は祖先の地・福県省に戻
ったが、そこに住んでいた叔父は、中国社会の腐敗ぶりから、
せっかく日本人になれる機会を掴んだ蔡さんの父親に「お前は
こんなところにいるような人間ではない」と帰還をすすめた。
蔡さんの父親はこうして「日本人」として生きていく道を選ん
だ。

 蔡さんは昭和2(1927)年、台湾中部の清水に生まれた。台湾
総督府は教育の普及に力を入れており、蔡さんも台湾人児童の
ための清水公学校に入った。ここでは鹿児島出身の河村秀徳校
長が、地元の人々の寄付を集めて、16ミリ映画や校内有線放
送による視聴覚授業など、当時の日本本土にもなかった先進的
な教育を試みていた。

 各校には教育熱心な日本人教師が配置されていた。蔡さんの
後輩に優秀だが貧しくて中等学校にいけない生徒がいたが、あ
る日本人の先生はその父親を訪ねて、「私が学校に行かせるか
ら」と言って5年間の学費を肩代わりしてくれた。日本人教師
と台湾人生徒の間には強い師弟関係が生まれ、現在も日本から
恩師がやってくると、台湾中から教え子が集まり、また自分の
郷里に招こうと恩師の奪い合いになるほどである。

 このような形で日本統治下での教育の普及が進み、昭和20
年での就学率は92%に達していた。ちなみに4百年間オラン
ダの植民地だったインドネシアでは3%だった。[a]

■3.大地震■

 昭和10(1935)年、台湾中北部を大地震が襲った。当時8歳
だった蔡さんも、多くの家屋が倒壊し、行き場を失った被災者
が恐怖にうち震える姿を見た。この時に、昭和天皇から遣わさ
れた入江相政侍従長が被災地の民家を一軒づつ廻って、お見舞
い金を下賜された。

 蔡さんの実家が持っていた貸家のうち、全壊は10円、半壊
は5円が下賜された。蔡さんの父親は、被害にあった借家人た
ちに見舞金をそのまま与えた。また軽傷を負った蔡さんの母も
1円を頂戴したが、その1円札は丸い額に入れ、昭和20年ま
で壁にかけられていた。少年だった蔡さんにも昭和天皇の国民
への愛情が伝わり、皇室に対する親近感が心の中に芽生えた。

■4.立派に戦ってくる■

 昭和16(1941)年、大東亜戦争が始まる。真珠湾でのアメリ
カ太平洋艦隊殲滅、マレー海戦でのイギリス東洋艦隊撃滅の報
に台湾民衆も興奮し、内地同様に提灯行列で祝った。14歳に
なっていた蔡さんも「いつの日にか戦の庭に馳せ参じたい」と
心に誓った。台中県には海軍の飛行場があり、蔡さんは塹壕堀
りの動員作業に参加して、生まれてはじめて洋食をご馳走にな
った。

 台湾人には軍人への道が閉ざされていたが、昭和17年、戦
線の拡大と共に、門戸が開かれた。志願兵制度が発表されるや、
千人の募集に40万人の志願者が殺到し、中には血書嘆願する
ものもいた。蔡さんも遅れをとるまいと少年兵募集に応募し、
昭和20年1月、少年航空兵として陸軍航空学校入学を許され
た。日本への出発の前夜、蔡さんは友人にこう語った。

 チャンコロといって俺をバカにする内地人は嫌いだ。し
かし俺は日本という国が好きだ。天皇陛下が好きだ。だか
ら俺、立派に戦ってくる。

 蔡さんの父親は、戦費捻出のために金製品の買い上げを呼び
かける日本政府に協力して、家の金製品を残らず差し出そうと
した。金の指輪一つだけは残そうとした母親と口論していた父
親の姿を、蔡さんは思い出す。「ああ、親父は、いい日本人に
なろうとしているのだ」と蔡さんは誇りに思った。

■5.内地にて■

 蔡さんは奈良市高畑の岐阜陸軍航空整備学校奈良教育隊(現
在の奈良教育大学)に入校した。そこでは台湾で経験したよう
な差別はまったくなく、上官達からかわいがられた。教科も飛
行機整備などの専門分野よりも、数学などの一般教科に多くの
時間が割かれた。

 ここでは伝染病予防のために「ハエ取り競争」という競技が
あり、負けると夜間の不寝番という罰則が待っていたのだが、
班長の安原万寿太(ますた)軍曹は、「お前たちは、必死にな
ってハエなど採らんでもいい。その分しっかり勉強せい。学生
の本分は勉強だ。罰則の不寝番は俺がやってやるから心配する
な」と言ってくれた。そんな班長を不寝番に立たせては申し訳
ないと、蔡さんの班は頑張って常に中隊一位の成績を収めた。

 8月、敗戦。ある中隊長から「君たちはまだすぐには台湾に
帰れないだろうから、軍の払い下げの山で雑木を切って我々と
一緒に炭を作ろうじゃないか」と誘われた。こうして蔡さんは
10数名の仲間と一緒に京都の美山町の山奥で炭焼きを始めた。
地元の人達が「兵隊さん、これをご飯の足しにしてください」
と大豆や山菜、松茸、山芋などを差し入れてくれた。

 12月、連合軍の命令で台湾への帰還を命ぜられ、佐世保で
船を待つ。「中華民国台湾青年隊」の腕章を与えられ、一躍戦
勝国民にされたが、複雑な心境だった。

 佐世保の復員事務局では「第○小隊第○班50名」と言えば、
50名分の食事が用意された。蔡さんたちはこの手で食料を余
分に手に入れて「味噌焼きおむすび」を作り、佐世保や、遠く
京都にまで戻って、飢えた戦災孤児たちに与えた。

■6.祖国への帰還■

 昭和21(1946)年1月1日、接収された駆逐艦「夏月」で台
北に到着。しかし出迎えた軍楽隊に続く中華民国の兵士を見て、
帰還の喜びは心の中で音をたてて崩れた。

 ぼろぼろの綿入れ服に唐傘を背負い、わらじを履いている者、
天秤棒の竹籠に鍋釜をのぞかせている者、全員が胸のポケット
に歯ブラシをさし、醤油で煮詰めたような汚いタオルを腰にぶ
ら下げている。規律正しい日本陸軍とは似ても似つかぬ姿であ
る。

「俺はこんな連中と一緒になるのはいやだ!」と、共に帰還し
た二人の戦友は、引き揚げる日本兵に紛れて、日本に戻ってし
まった。日本軍の制服のまま、日本語を話していれば、疑われ
ることもなかったのである。

■7.金、金、金の世界■

 中華民国政府による台湾統治が始まると、日本統治時代には
考えられない不正と汚職がはびこり始めた。大陸から派遣され
てきた警察官は何の罪もない人々を微罪で捕まえては、保釈金
を要求した。

 蔡さんは従兄弟が校長を務める小学校の体育の教師となった
のだが、ある日、用務員が警察の備品を便所に投げ入れた、と
いう疑いで拘束された。ゴム・ホースでさんざん殴りつけられ
た用務員は、自分がやったと自白させられた上で、蔡さんに命
ぜられたと苦し紛れの証言をした。

 出頭命令を受けて、蔡さんが交番に行くと、用務員はおどお
どした上目遣いで「蔡先生、助けてください」と言う。蔡さん
が議論で警官を負かすと、怒った警官が拳を振り上げてきた。
ちょうどそこに校長がやってきて、警察局長と話をつけて、事
なきを得た。

 教員は業者からノートを安く仕入れては、生徒に定価で売り
つけるようになり、少しでも裕福な生徒のいる学校に移って身
入りを多くしたいと県の教育課や校長に賄賂をおくるようにな
った。すべては金、金、金の世界になってしまった。

■8.2・28事件の惨劇■

 1947年2月27日、台北の路上でタバコ売りをしていた老婆
が、専売局の役人に暴行されたのがきっかけとなって、怒った
民衆が立ち上がった。翌28日、群衆が旧総督府前の広場に集
まると、憲兵隊が機銃掃射を行い、十数名が死傷した。各地で
抗議行動が展開され、ラジオ放送局を占拠した民衆が、台湾全
土に向けて非常事態を告げた。2・28事件の始まりである。
[b]

 ラジオからは日本語で「元○○飛行隊のものは○○に集結せ
よ」などと呼集がかかり、軍艦マーチや君が代行進曲が流され
た。「基隆港に日本からの援軍が上陸したらしいぞ」という噂
も流れた。

 3月2日、蔡さんの町にも暴動が飛び火し、群衆が若い外省
人の警察局長宅に押し入った。立派な革のトランクがこじ開け
られると、中には札束がぎっしりと詰め込まれている。民衆は
この「汚れた金」を燃やしてしまった。

 3月8、9日に大陸から送られてきた2個師団が上陸すると、
報復が始まった。中国兵はトラックに据え付けた機関銃を乱射
しながら町の大通りを駆け抜け、無差別殺戮を行った。さらに
医師や教師、弁護士、学者などの知識層が次々と逮捕され、裁
判もなく処刑されていった。犠牲者は3万とも5万とも言われ
ている。

 蔡さんの知人で基隆警察局の用務員だった人も検挙され、手
のひらに太い針金を通されて、9人一緒につながれ、銃で撃た
れて、海に突き落とされた。幸い列の一番端で銃弾が当たらず、
手のひらの針金を抜いて、九死に一生を得た。また当時17歳
だった蔡さんの実弟は、北京からやってきた先生に言われる通
り書いた一枚のメモがもとで、10年の懲役刑を科せられた。

■9.日本人よ胸を張りなさい!■

 1968(昭和43)年10月、ジャパンラインという船会社の代
理店の営業部長として、蔡さんは戦後初めて日本の土を踏む。

 案内役の高島嘉道氏に頼んで、靖国神社に連れて行ってもら
った。かつて共に戦い、祖国に殉じた2百数十万の英霊に鎮魂
の祈りを捧げたかった。ここには台湾人戦没者2万7千余柱も
祀られている。その一人が李登輝氏の実兄で、海軍機関上等兵
としてフィリッピンで戦死した李登欽氏(改姓名・岩里武則)
である。

 社に向かうと、高島氏が胸ポケットの定期入れから一枚の写
真を取り出して、言った。「蔡さん、これ・・・私の兄です。
フィリピンで戦死しました。蔡さん、今日は本当にありがとう
ございます。」「この時、高島氏と私の心が一つになった」と
蔡さんは語っている。

 戦後の価値観で、過去を批判する現代日本人に、蔡さんは次
のように語りかけている。

 日本統治時代、日本人教師達は、我々台湾人に「愛」を
もって接してくれた。そして「公」という観念を教えてく
れたのだった。愛された我々は、日本国家という「公」を
愛し、隣人を愛したのである。[p198]

 どうぞ心に留めていただきたい。「日本」はあなた方現
代日本人だけのものではない。我々「元日本人」のもので
もあることを。[p245]

 台湾には、日本がいまこそ学ぶべき「正しい日本史」が
ある。どうぞ台湾に正しい歴史を学び、自信と誇りを取り
戻していただきたい。そして誇りある日本が、アジア地域
の安定と平和を担う真のリーダーたらんことを願う。




*********************************************

感謝される日本隊
パート4・624 :文責:名無しさん :02/04/23 23:28 ID:GQXnnc5F

■1.感謝される日本隊■

 今回の台湾大地震では、日本がかなり目立った働きをした。地
震発生当日の夜には、日本からの緊急援助隊が一番乗りし、「空
港で一秒間も休まずに災害現場に駆けつけた」(地元マスコミ)。
規模も合計百二十五人と最大、機材も最新鋭、訓練、規律も最高
とあって、地元マスコミに高く評価された。[1]

 ファイバースコープや生存者の呼吸を電磁波で探知する「シリ
ウス」と呼ばれるハイテク機器、赤外線探知機、さらに大型の切
断器具などの最新鋭装備だけでなく、発見された遺体に敬礼を捧
げたり、「(救助できずに)申し訳ありませんでした」と遺族に
語る救助隊員の姿勢が、好感を持って報道されている。

 日本時代に育った高齢者「多桑(とうさん)」世代を中心に、
「よくやってくださいました。ありがとう。」と涙を浮かべなが
ら、丁寧な日本語でねぎらいの言葉を寄せたり、食事を提供して
くれる人も多い。被災地の、それも最も被害の甚大な場所にいな
がら、食事や水に困ったことがないという。[2]

■2.「多桑」世代の親日感情■

「多桑」とは、台湾語読みで「トーサン」、日本統治時代の「父
さん」の名残である。94年に作られた映画「多桑」は、「金馬奨
(台湾のアカデミー賞)」の観客投票最優秀作品賞を受けた。

 映画の主人公セガは、日本教育を受けた世代で、戦後も何かに
つけ、日本びいきだ。子供たちには「トーサン」と呼ばせ、家で
は日本のラジオ放送を聞き、ラジオの具体が悪くなると、日本製
じゃないとだめだ、とぼやく。セガの夢は日本に行って、皇居と
富士山を見ることだった。しかし、その夢を果たす前に、この世
を去る。

 始めは「奸漢(売国奴)」と非難していた長男も、成人して父
親の心情を理解する。この長男が監督として、実体験に基づいて
作った映画が「多桑」である。「多桑」世代の人々は、この作品
を見て涙を流し、若い世代も関心を向けた。[3,p257]

 しかし、「多桑」世代の人々は、なぜそんなに親日的なのだろ
うか。それは、今回の日本の救助隊と同様、いやそれよりもはる
かに大きなスケールで、台湾のために尽くした多くの日本人がい
たからである。今回は、それらの人々の一部を列伝風に紹介して
みたい。

■3.児玉源太郎、後藤新平、新渡戸稲造■

 明治31(1898)年、日本の台湾統治は、まだ3年目であり、あ
ちこちに反抗勢力が残り、治安の確立も、産業の発展も立ち遅れ
ていた。ここで第4代提督として任命されたのが、後に日露戦争
でも活躍した児玉源太郎である。児玉は、後藤新平(後の東京市
長)を民政長官に起用した。

 後藤はもともと医師であり、社会衛生を重視した。アヘンに高
率の税をかけ、吸引者を徐々に減らすと共に、その税収を衛生改
善に当てた。当初16万9千人もいたアヘン吸引者は、50年後
の日本敗戦時には皆無となっていた。

 また、台湾は「瘴癘(しょうれい、風土病)の地」とも呼ばれ、
台湾平定時の日本軍戦死者164名に対し、病死者が実に4,642
名という有様だった。[3,p306]

 後藤は悪疫予防のために、上下水道を完備し、主要道路は舗装
して、深い側溝を作り、汚水雨水の排出を速やかにした。これは
当時の日本本土でも行われていなかった。

 伝染病を抑えるために、台湾医学校を設立して、ここから多く
の台湾人医師が育った。またほとんど都市の形をなしていなかっ
た台北で、大都市計画を実行し、整然とした清潔な市街を作り上
げた。

 児玉と後藤が台湾農業振興のために、三顧の礼で迎えたのが、
日本で最初の農学博士・新渡戸稲造である。新渡戸は、半年かけ
て台湾全土を巡り、製糖産業に目をつけた。そして品種改良、耕
作方法、加工法の改善に取り組んだ。

 この努力が実り、1900年に3万トンだった産糖は、1940年には
160万トンとなり、台湾は世界有数の生産地となった。[4]

 児玉は、後藤、新渡戸を全面的にバックアップするかたわら、
各地を精力的に巡視して、80歳以上の老人男女を食事に招待す
る(饗老会)など、民心把握に努めた。日露戦争中は、満州軍総
参謀長となりながらも、台湾提督の職位を離れなかった。

 児玉の死後、江ノ島に神社を作ろうという議が起こったが、予
算11万円に対し、集まったのはわずか3千円であった。このこ
とが台湾に伝わると、残りの金額はわずか2週間で集まった。台
湾人民がいかに児玉を敬愛していたかが窺われる。[3,p292]

■4.西郷菊次郎の治水工事■

 西郷菊次郎は、西郷隆盛が沖縄に流されたおり、愛加那(あい
かな)との間にもうけた子供である。米国留学の後、台湾が日本
に割譲された明治28(1895)年から、約7年間、地方行政に携わ
った。

 そのうち5年6ヶ月を、台湾の東北部、宣蘭(ぎらん)の庁長
として務めた。宣蘭は台湾第二の平原である蘭陽平原にあり、そ
こを流れる宣蘭河は、毎年氾濫を起こし、民衆を苦しめていた。

 西郷はこの治水工事に巨費を投じ、約1年半、延べ約74万人
の人員を投入して、取り組んだ。この治水工事が成功して水害は
根絶され、宣蘭の民衆有志は、その恩恵に感激して石碑を立てた。
この「西郷庁憲徳政碑」は、3m以上もの巨大なもので、漢文で
西郷菊次郎の徳政を高く称えている。[3,p90]

■5.教育に殉じた六氏先生■

 公衆衛生、治水、産業振興と並んで、重視されたのが、教育で
ある。台湾割譲が決まった明治28年当時、文部省の学部長心得
だった伊沢修二は、初代の台湾総督の樺山資紀に、教育を最優先
すべきと具申し、自ら学務部の長となり、7人の教師と共に、台
北の北方に芝山巌学堂を開いた。

 当時は、日本への割譲に反対する清朝残党がゲリラ活動を続け
ており、台北奪回を目指す勢力が不穏な動きを続けていた。

 それでも伊沢たちは学堂に泊まり込んで「身に寸鉄を帯ずして
住民の群中に這入らねば、教育の仕事は出来ない。もし我々が国
難に殉ずることがあれば、台湾子弟に日本国民としての精神を具
体的に宣示できる」と、死をも覚悟して教育に打ち込んだ。

 事件は翌明治29年元旦、伊沢の一時帰国中に起こった。叛乱
勢力が元旦を期して台北を攻撃するという。人々は学堂に残って
いた6人の教員にこのことを告げて、避難することを勧めた。

 しかし「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」との覚悟を示し
て6人の先生たち意に介さなかった。台北での拝賀式のため、山
を降りた時、6人は約100名からなる勢力の襲撃を受けた。6人
は教師らしく、諄々と教育の意義を説き、一時は説得できるかに
思われたが、彼らの一部は聞き入れずに槍を持って襲いかかった。
6人はやむなく白兵戦で防ごうとしたが、衆寡敵せず、全員が惨
殺されてしまった。

 「命をかけて教育に当たる」という「六氏先生」の「芝山巌精
神」は、その後、長く台湾教育の指針とされた。昭和5年には芝
山巌神社が創建され、六氏先生をはじめとして、台湾教育に殉じ
た人々が、昭和8年までに330人祀られた。そのうち、台湾人
教育者は24人を数えた。

 芝山巌学堂が開かれて満百年にあたる平成7年、後身である士
林国民小学(伊沢修二を初代校長とする)の卒業生有志は、六氏
先生の墓を建て直し、日本からも遺族、関係者約50人が出席し
て、「開校百周年記念祝賀会」が盛大に開かれた。

 芝山巌事件を詳しく調べている陳絢暉氏は、その著書「非情古
跡・芝山巌」を次のように結んでいる。

 「仆(たお)れて後已(や)む」の芝山巌精神が永しえに台
湾に根づくことが出来ますよう、地下の六氏先生にお頼み申し
上げます。合掌。[3,p49]



*********************************************

台湾の健全な成長を
パート5・148 :文責:名無しさん :02/04/28 04:59 ID:jJHbE1Pz

_/ _/ 医学者・後藤新平は「生物学の法則」によって
_/_/ 台湾の健全な成長を図った。
-----------------------------------------H12.07.02 25,843部

■1.「台湾独立」の完成■

 5月20日、台湾の第10代新総統・陳水扁氏の宣誓式典が
行われ、12年にわたる任期を終えた李登輝・前総統は陳氏に
見送られつつ、静かに総統府を退出した。

 蒋介石が大陸から台湾に逃げ込んでから約50年。大陸から
逃げ込んだ中国人(外省人)が、言語、習俗、歴史も異なる台
湾人(内省人)を支配してきた構造は、1987年まで台湾語によ
る放送が禁止されていたことからも窺えるように、一種の外来
政権支配であった。「台湾独立」とはもともと、蒋介石外来政
権からの台湾人の解放を意味していたのである。

 李登輝氏が国民党員ながら台湾人として初めて総統に就任し、
今回は陳水扁氏が、台湾人の政党を率いて政権を奪取した。こ
こに「台湾独立」は平和裡に成就し、台湾人による台湾人のた
めの政府が実現した。

■2.化外、瘴癘の地■

 日清戦争の結果、台湾は日本に割譲されたものの、そこは清
国政府からも「化外(中華文明の及ばない)の地」「瘴癘(し
ょうれい、風土病)の地」と呼ばれ、見捨てられた荒廃地であ
った。阿片中毒が蔓延し、原住民による反乱、伝染病の流行が
相次ぎ、ほとんど産業らしきものはなく、民生は荒廃していた。

 日本は当初、武力で治安をもたらそうとしたが、事態は好転
せず、住民の中にも日本の統治に対する不安が拡がって、大陸
に渡ってしまう者が相次いだ。

 日本国内でも台湾放棄論や売却論が主張された。しかし、日
清戦争で獲得した遼東半島は、ロシア・フランス・ドイツの三
国干渉で返還を余儀なくされ、これら各国が争って進出してい
る。ここで台湾まで失ったら、いよいよ日本は欧米諸国に囲ま
れて、国の独立すら危うくなる。

 明治31(1898)年2月、切り札として第4代台湾総督を命ぜ
られたのが児玉源太郎であった。児玉はすぐに後藤新平を呼ん
だ。日清戦争後、後藤が大陸からの帰還兵23万余の検疫を2
ヶ月で完了するという世界でも例のない作業をやり遂げた手腕
を、当時陸軍次官であった児玉源太郎は高く評価していた。

 児玉は、検疫事業後、内務省衛生局長となっていた後藤に言
った。「今、台湾をやるのは私と君だよ。ほかにはいない。」

■3.植民地ではない■

 児玉と後藤が台湾に着任したのが、明治31(1898)年3月、
時に後藤新平40歳。それから満州鉄道総裁として転出する明
治39(1906)年7月までのわずか8年余に、後藤は民生長官と
して、阿片問題解決、ゲリラ帰順、港湾・鉄道・道路・下水道
建設、土地調査、製糖産業の発展など、矢継ぎ早に近代化政策
を実行していった。この時築かれたインフラが、現在も台湾経
済を支えている。

 台湾を植民地と見る一部の官僚たちに対し、後藤は新しく日
本に編入された「新領土」であると主張していた。イギリスや
オランダ流の植民地であれば、原材料を買い叩かれ、製品を売
りつけられる搾取対象でしかない。

「新領土」であれば、米国がメキシコから奪ったテキサスやア
リゾナ、カリフォルニアのように、国内領土として治安の確保、
民生の向上、そして地域経済の発展が課題となる。

 ただアメリカが「新領土」西南部諸州において、原住民イン
ディアンを殺戮して土地を奪い、不足する労働力は黒人奴隷や
中国や日本からの移民でまかなうという「外科手術」的手法を
とったのに比べれば、後藤の手法は「漢方薬」的であった。

 医学を専門とする後藤は「生物学の法則」を方針とした。
ダーウィンの進化論にならい、新領土の社会を一つの生命体と
して、その悪しき体質は徐々に改善させ、本来の善き生命力を
引き出して成長させていくという進め方であった。

■4.アヘン専売と吸飲免許■

 日清戦争後の下関の談判において、清国の全権李鴻章は、ア
ヘンには貴国もきっと手を焼きますぞ、と捨てぜりふを残して
いったそうな。当時16万9千人もいたアヘン中毒患者の問題
を日本がどう処理するか、世界各国も注目していた。

 わが国に伝播したらなんとする。吸引するものは厳罰に
処すべし。輸入や販売を行う者についても同様だ。従わな
いものは台湾から追い出せ。中国大陸に強制送還せよ。

 このような厳禁説がさかんに唱えられたが、後藤は、これで
は各地に反乱が起き、何千人の兵士や警官が犠牲になるかわか
らない、と反対して、漸禁説をとった。

 まず中毒にかかっているものだけに免許を与え、特許店舗で
のみ吸引を認める。新たな吸引者は絶対に認めない。アヘンは
政府の専売とし、その収入を台湾における各種衛生事業施設の
資金に充当する。

 アヘンを政府の専売とするという破天荒なアイデアであった
が、後藤の読み通り、大きな混乱もなしに、アヘン中毒患者は
次第に漸減して、日本敗戦時には皆無となっていた。

■5.ゲリラ帰順■

 台湾には清国の統治していた時代から「三年小叛、五年大
叛」という言葉があった。時の政府に対して3年に一度は小さ
な反乱が、5年に一度は大きな反乱が起こるという意味である。

 しかもこれは一過性ではなく、ゲリラたちは日常的に台湾の
村人たちから「税金」と称して、収穫の30%から40%もと
っていってしまう。武力でゲリラを制圧しようにも、日本人に
は村人とゲリラの区別がつかない。村人が日本の役人に密告す
ると、ゲリラはすぐに復讐する。

 後藤は軍政ではなく民政によって台湾を掌握すべしとして、
台湾全島に向かって次のような総督布告を出した。

 新総督としては、島民の一家団欒を望んでいる。だから
帰順したいものは自由に官邸に来てよろしい。もしこれを
疑うなら民政長官の側からそちらに出向いて話し合っても
よい。

 この風変わりな布告は、短期間の間に3百万人の台湾島民に
行きわたった。この布告に応えて、三百名あまりのゲリラの一
団が投降を申し出てきた。後藤は宣伝のためにも投降式をやろ
うと決心し、護衛もなく、部下一人だけ連れて、一昼夜をかけ
てゲリラたちの根拠地に向かった。

 投降式の模様は台湾全土に大々的に報道され、その後は安心
したゲリラが次々と投降し始めた。後藤は「職を与えなければ
またゲリラに戻りかねない」といって、地域の土木工事に従事
させるなど、投降後の生活の面倒までみるようにした。

 こうして大部分のゲリラが投降し、押収した銃は合計5万丁
にのぼった。最後まで抵抗した少数のゲリラは武力で鎮圧され
た。ゲリラ対策の完了は明治35年、後藤の赴任から5年近く
かかった。

■6.気候・風土に適した農業振興■

 このようにアヘンやゲリラなどの悪しき体質を徐々に改めつ
つ、後藤は台湾社会の生命力を引き出すための産業振興に取り
組んだ。まず台湾の気候・風土に適した農業を興さねばならな
い。

 そのための人材として元札幌農学校教授・新渡戸稲造に目を
つけ、何度も手紙を書き、最後には直接掛け合って台湾に招い
た。新渡戸は台湾にはサトウキビの生産が適していると見抜き、
ジャワにまで研究に行って、品種改良と耕作方法改善に努めた。

 この改良品種は瞬く間に台湾全土に普及し、同時に後藤は製
糖工場の近代化、大規模化を進めさせた。その結果、砂糖産業
は、生産高が明治33(1900)年の3万トンから昭和12年(1937
)には100万トンと飛躍的に伸びて台湾の中心産業に発展した。
新渡戸はさらにウーロン茶や米の生産も飛躍的に伸ばした。

■7.交通網と都市整備■

 農業の発展とあわせて、農産物輸送のための築港、鉄道、道
路などのインフラ整備が必要となる。これらは人体で言えば、
筋肉作りに相当する。

 築港では基隆港の工事を明治32(1899)年から始め、昭和4
年には1万トン以上の船舶が同時に15隻も荷役を行うことが
できる本格的な国際的商業港として完成した。倉庫の規模、能
力は当時東洋一といわれた。この基隆港を通じた交易は、台湾
に莫大な利益をもたらした。

 鉄道は、台湾を南北に縦貫する路線を明治41(1908)年まで
に全線を完成させた。また当初台湾には道路らしい道路もなか
ったが、投降したゲリラに仕事を与えるためにも、都市間を結
ぶ本格的な道路建設を進めていった。

 台北市内には高速、並木、一般車道と片道3線からなる幅4
0メートルの道路4本を建設した。さらに中心部には総督官邸
や博物館など、近代的建築物をいくつも建設したので、台北は
東京などよりも、よほど近代的な景観を持つに至った。この偉
容は現在でも窺うことができる。

 また台湾では毎年のように数千名のコレラ患者が発生してい
たが、後藤は伝染病の予防は上下水道の設置から始まるとして、
大規模な上水道と、パリの下水道にならった排水路を付設した。
これらの上下水道は東京よりもずっと早く完備したと、台湾の
人々は自慢にしていた。

■8.土地調査によるソフト・インフラ整備■

 バランスのとれた発展のためには、港湾、鉄道、道路などの
ハードのインフラと同時に、行政、法治などのソフトのインフ
ラも不可欠である。その基礎となるのが、土地所有権保護と課
税のベースとなる土地調査である。

 土地調査は、清国が何度も試みては失敗していた。土地調査
をすれば、脱税が出来なくなるので、住民の反乱のもととなっ
ていたのである。

 後藤は清国の失敗は台湾に古くから存在する慣習や自治組織
を無視して本国の政策を押しつけたからだとして、現地の旧習
を重んずる人材を当てて調査を進めさせた。

 結局10年以上かかる難事業となったが、その結果、土地か
ら上がる税収は従来の2倍以上となり、十分な成果を上げるこ
とができた。結果を注目していた欧米列強は「日本侮るべから
ず」との印象を抱いた。

■9.公債による開発資金調達■

 以上のような開発を行うには、膨大な先行投資が必要だ。イ
ギリスやオランダのように、植民地から手っ取り早く利益を搾
り取るというのとは根本的に異なる。

 児玉と後藤が、開発資金を捻出する方法として考え出したの
が、公債発行である。公債を発行して欧米から資金を集め、そ
れによって台湾を開発し、開発利益によってその借金を返すと
いう考え方だ。これは現在の開発銀行と同じアイデアである。

 後藤は、6千万円を20年で償還する公債発行計画を組んだ。
当時の政府財政規模の8割にも達する巨額の公債発行計画に反
対する政治家も多かったが、帰国して反対派と侃々諤々の議論
を行い、一部減額した上でついに政府の承認を得た。

 この公債によって、世界中から開発資金を集め、産業振興や
インフラ整備を進めた結果、台湾の経済は急速に発展し、つい
に明治38(1905)年以降、台湾は日本政府からの補助金を受け
ずに財政的に独立することができた。

■10.真の成功とは?■

 明治39年、50歳となっていた後藤は、南満州鉄道株式会
社総裁として満州に赴任し、同様の辣腕を振るうようになる。
これについては稿を改めるが、後藤は台湾のそれ以降の成長に
ついて、どのようなビジョンを描いていたのか。

 時の首相・西園寺公望が後藤に満鉄総裁就任を依頼した時に、
「君は台湾で成功した経験を持っている。それをぜひ満州で生
かしてほしい」と言った。後藤は次のように言い返した。

 それは聞き捨てならない言葉です。台湾はまだ成功して
いない。成功というのは、財政の独立のことを言うのでし
ょうが、そんなものは成功でもなんでもありません。台湾
の人々が日本と統一する気持ちを持つようになれば初めて
成功といえるのであって、今はまだとてもそこまでいって
いない。

 台湾の人々が経済的自立と政治的自由を得て、その上で日本
と一緒にやっていこうという主体的な選択をしたならば、それ
が真の成功である、というのである。

 しかし、運命は台湾の人々にこのような選択の機会を与えな
かった。大東亜戦争後、今まで台湾とは縁もゆかりもなかった
蒋介石が台湾に逃げ込んできて、外来政権として支配するよう
になったからである。それから半世紀、李登輝、陳水扁両氏の
登場により、台湾の人々はようやく自由で主体的な政治的選択
を行える立場を得た。

 後藤新平を始めとする台湾の発展に尽くした我々の先人たち
は、草葉の陰で、かつての同胞の自立を喜ぶとともに、その自
由が再び大陸の独裁政権に犯されることのないよう現代の日本
人が支援することを願っているであろう。



*********************************************

八田與一のダム2
パート5・217 :文責:名無しさん :02/04/29 02:39 ID:KPQlvhcE

■1.日本人はすごいと思いました■

 台湾南部の古都・台南市から東北にバスで1時間20分ほど
行くと、台湾第2の烏山頭ダムに着く。湖畔にはホテルが建ち、
満々と水をたたえた湖水にはボートも浮かぶ観光地になってい
る。

 このダムを見下ろす北岸に、日本式の墓があり、「八田與一、
外代樹之墓」と刻まれている。墓の前には作業着姿で腰を下ろ
し、片膝を立てた八田の銅像が建っている。墓も銅像も、この
ダムを造った八田與一を敬愛する地元農民が作ったものだ。

 1996年、地元の農民たちと日本人が集まって、墓前で50回
目の慰霊祭を行った。参加した[1]の著者・斉藤充功氏が、ち
ょうどダム見学に来ていた女子高生2、3人に話を聞いてみる
と、こういう答えが返ってきた。

 学校の授業でダムを作ったのが日本人だということは聞
いて知っていました。しかしなんという日本人なのか先生
も知らなかったので興味をもってここに来ました。説明板
を読んで八田與一技師ということが分かりました。驚いた
のはダムができたのが私のお爺さんの時代で、遠い昔に
10年もかけて八田技師はここに住みついてダムを完成さ
せたと書いてあります。日本人はすごいと思いました。

 八田與一の業績は、前台湾総統・李登輝氏の次の言葉が見事
に要約している。

 台湾に寄与した日本人を挙げるとすれば、おそらく日本
人の多くはご存じないでしょうが、嘉南大しゅう(土へん
に川、用水路)を大正9年から10年間かけて作り上げた
八田與一技師が、いの一番に挙げられるべきでしょう。
台湾南部の嘉義から台南まで広がる嘉南平野にすばらしい
ダムと大小さまざまな給水路を造り、15万ヘクタール近
くの土地を肥沃にし、100万人ほどの農家の暮らしを豊
かにしたひとです。

■2.嘉南平野開発計画■

 嘉南平野は香川県ほどの大きさで、台湾全体の耕地面積の6
分の1を占める広大な土地である。また亜熱帯性気候で一年に
2,3回もの収穫を期待できる地域であったが、水利の便が問
題だった。降水量こそ年間2000ミリを超える豊かさであったが、
河川は中央山脈から海岸線まで一気に流れ落ちるために、雨期
には手をつけられないほどの暴れ川となり、乾期には川底も干
上がる有様である。農業生産も天候任せできわめて不安定、低
水準であった。

 台湾総督府の土木技師であった八田與一は、この嘉南平野に
安定した水供給をする灌漑施設を建設することによって、この
地を台湾の穀倉地帯にできると考え、「嘉南平野開発計画書」
を作り上げた。台南市の北を流れる官田渓の上流の烏山頭に当
時東洋一の規模のダムを造り、そこから平野全体に給排水路を
張り巡らせるという壮大な計画だった。この計画には、地元嘉
南の農民たちも熱い期待を寄せ、出来る限りの経費と労力を自
分たちで負担するとまで書かれた嘆願書が何度となく、総督府
に提出された。

 予算は総額4200万円、これは当時の台湾総督府の年間予
算の1/3以上の及ぶ規模で、内地の政府援助が不可欠であっ
た。内地も米騒動などで大変な時期だったが、1200万円を
国庫補助し、残り3千万円を地元農民など利害関係者が負担す
ることになった。

■3.東洋一のダム■

 八田が計画したダムは、満水時の貯水量1億5千万トン。こ
れは世界有数のアーチ式ダム、黒部ダムの75%に相当する。
東京都民の水がめとなっている広大な狭山湖を訪れたことのあ
る人は多いだろうが、これは烏山頭ダムの数年後に完成し、そ
の貯水量は1952万トン。烏山頭ダムは実にその7.5倍である。

 ダムの堰堤部の断面は台形で、頂部幅9メートル、底部幅
33.3メートル、高さ51メートル。これを長さ1.35キ
ロメートルにわたって、盛り土で作り上げる。土石を水圧で固
めながら築造するという当時世界最新のセミ・ハイドロリッ
ク・フィル工法をわが国で初めて採用する。

 烏山嶺を超えて、ダム湖に曽文渓の水を引くために、直径8
メートル55センチ、長さ4キロメートルのトンネルを掘る。
これで毎秒50トンの水を流し込む。当時のトンネルで最大の
ものは東海道線の熱海の丹那トンネルだったが、それよりも1
5センチ大きい規模だった。

 給排水路は総延長1万6千キロ、地球を半周する長さで、日
本最大の愛知用水の13倍にも及ぶ。さらに給水門、水路橋、
鉄道橋など、200以上もの構造物を作る。

 八田は大正6(1917)年から3年間、現地調査と測量を行い、
大正9年9月1日からいよいよ工事を始めた。11年には当時
のダム建設の先進国アメリカに7ヶ月出張して、米国の土木学
会の権威と議論し、また最新鋭の土木機械を買い集めた。

■4.外人の鼻を明かせてみろ■

 大正11(1922)年11月、米国から帰朝した八田は烏山頭工
事事務所の所長として、現場に住み込んで指揮をとり始めた。
当時、現場で働いていた李新福という人は次のように語ってい
る。

 とにかく気宇壮大な、当時ではとてつもない大きな工事
でした。それと、みんながいちばん驚いたのは、見たこと
も聞いたこともないバカでかい機械が工事の主役でした。
ダムの周辺には鉄道が何本も引かれており、私なんかも現
場では蒸気の機関車にひかれたエアーダンプカーに乗った
ものです。

 スチームショベルはひとすくい2立方メートルで、これは人
間一人が2時間かかって掘り出す土砂の量である。その外にも、
蒸気機関車、エアーダンプカーなど、八田が買い付けた機械は、
1000トンを超える。

 始めのうちは、日本人も台湾人も、初めて見る機械ばかりで、
使い方が分からない。機械と一緒に米国人のオペレーターも来
たが、「黄色いサルに覚えられるものか」と考えていたのか、
現場の人間には一切、使い方を教えなかったという。八田は、
「覚えるのは簡単だ。外人の鼻を明かせてみろ」と口癖のよう
に言って、叱咤激励を続けた。やがてこれらの機械がうなりを
あげて、土砂を運ぶようになっていった。

 現場には作業員やその家族2千人が住みついた。学校や病院
までも作られ、地元民からも感謝された。八田の子ども達も台
湾人の子どもと一緒にこの学校に通った。工事現場は夜遅くま
でこうこうと灯りがともり、徹夜作業も当たり前であった。建
設現場では人間関係が大事なことを知っていた八田はよく作業
員の宿舎に上がり込んでは、彼らとで花札に興じていたという。

■5.「仲間を失った」■

 12月、先行して進められていた烏山嶺トンネル工事で、ガ
ス爆発事故が起こった。90メートル掘り進んだ所で、石油が
噴出し、その石油ガスに灯油のランタンの火が引火して、爆発
したのである。日本人、台湾人あわせて50余名の死者が出た。

 八田は事故現場で陣頭指揮を執り、原因の徹底究明と、犠牲
者の遺族のお見舞いに奔走した。八田がいつもの作業着姿で犠
牲者の棟割り長屋を訪れ、台湾式の弔意を示すと、遺族は八田
の言葉をおしいただくように聞き入り、嗚咽したという。八田
の「仲間を失った」という悲しみが自然と伝わり、その心情が
遺族の胸をうった。

 工事が続けられるかどうか危ぶまれたが、台湾の人たちは、

 八田與一はおれたちのおやじのようなものだ。おれたち
のために、台湾のために、命がけで働いているおやじがい
るんだ。おれたちだってへこたれるものか。

 と、逆に八田を励ました。

 八田は工事が終わりに近づいた昭和5年3月、工事のために
亡くなった人々とその遺族ら134人の名前を刻んだ「殉工
碑」を建てた。名前は亡くなった順か、日本人と台湾人が混じ
って刻まれている。こんな所にも、八田の分け隔てのない仲間
意識が伺われる。

■6.ダム完成■

 翌12年9月、関東大震災が起こった。死者10万余、全壊
家屋12万8千という大惨事に、台湾総督府も年間予算の30
%を復興支援の財政援助を申し出た。その結果、烏山頭ダム工
事への補助金も大きく削られ、八田は職員、作業員の半数を解
雇せざるをえない事態に追い込まれた。

 3年間苦楽を共にしてきた仲間を解雇することは、八田にと
って身を切られる思いであった。八田は解雇者の再就職先を探
すために、総督府のつてをたどったり、業者の縁故を頼って奔
走した。見つけた斡旋先には、工事が再開されれば、優先して
再雇用するという条件をつけたという。嘉南の人々に今も語り
継がれているエピソードである。

 このような危機を乗り越えて、工事が完成したのは、昭和5
(1930)年4月であった。大正9(1920)年9月以来、10年近い
年月が流れていた。1億5千万トンの水を入れるのに、直径9
メートル近いトンネルでも、40日あまりかかった。

 5月10日から満々と水をたたえた烏山頭ダムの竣工を祝う
祝賀会が3日間に渡って開かれた。地元民が招待客3千人を超
えて集まったため、会場をもう一カ所増設して収容した。屋台
や特設の芝居舞台がにぎわい、花火が打ち上げられ、夜は提灯
行列まで繰り出された。

 アメリカの土木学会からは「八田式セミ・ハイドロリック・
フィル工法」に関する論文を求められ、学会誌に掲載された。
八田の独創的な技術がアメリカでも認められたのである。

■7.農作物の増産■

 祝賀会の終わった5月15日、烏山頭ダムからの給水が始ま
った。八田の合図でバルブが開けられると、直径1.8メート
ルの放水口6本から、ゴーというすさまじい音を立てて、水が
流れ出していく。そして精密な測量に基づいて、勾配1%とほ
とんど水平にしか見えない水路でも設計通り水が流れていった。
しかし15万ヘクタールの土地にはりめぐらされた全長1万6
千キロメートルの水路に給水する水利運用が軌道に乗るまでに
は3年かかった。

 また100万人近い嘉南平野の農民は、計画的な水利に基づ
く米作りは初めてである。東京農業大学出身の中島力男技師が
農村を巡回して、苗代作り、田植え、稲の消毒から農機具の使
い方を指導した。

 計画した農作物の増収が実現するには、ダム完成後6年かか
った。しかし、水稲作は工事前の収穫高10万7千石が65万
7千石と6倍に、甘藷作は138万石から288万石と2倍に
伸びた。地元農民の増収金額は年間2千万円以上に達し、彼ら
が負担した事業費2739万円の返済も容易であったろう。な
お総督府の補助金は2674万円に上った。

■8.八田夫妻の最期■

 烏山頭ダムの完成後、八田は台北に戻った。昭和14(1939)
年には、技師として最高の官位である勅任官待遇を与えられた。
台湾がさらに発展していくためには、現地人技術者の養成が不
可欠だと考え、自ら奔走して台湾で最初の民間学校として「土
木測量技術員養成所」を台北市内に作った。この学校は年々発
展して、現在も「瑞芳高級工業職業学校」として、毎年多くの
技術者を社会に送り出している。

 大東亜戦争2年目の昭和17年5月、八田は南方開発派遣要
員として、貨客船「大洋丸」でフィリピンに向かった。灌漑の
専門家として、フィリピンで綿作灌漑のためのダム建設の適地
を調査する任務だった。

 5月8日午後7時45分、大洋丸は五島列島沖を航海中、米
潜水艦の雷撃を受け、沈没。遺体は1ヶ月以上も経った6月
13日、はるか離れた山口県萩市沖合の見島で発見された。
7月16日、総督府葬をもって荼毘に付された。享年56歳。

 昭和20年、台北でも空襲がひどくなると、妻の外代樹は子
供たちと烏山頭の建設工事で使われていた職員宿舎に疎開した。
10年ぶりの懐かしい土地である。敗戦後2週間ほどした9月
1日未明、外代樹は黒の喪服に白足袋という出で立ちで、烏山
頭ダムの放水口に身を投げた。「玲子も成子も大きくなったの
だから、兄弟、姉妹なかよく暮らして下さい」という遺書が机
の上に残されていた。享年45歳。

■9.「偉いおじさん。台湾人の恩人」■

 嘉南の農民たちは、1946年12月、わざわざ日本の黒御影石
を探し出して、日本式の墓を八田夫妻のために建てた。以後、
毎年八田與一の命日5月8日に嘉南農田水利会の主催により、
墓前での慰霊追悼式が催されている。

 昭和6年に工事関係者が贈った八田の銅像も、戦争末期の金
属類供出が呼びかけられた頃、忽然と姿を消していたが、戦後、
地元民が隠して保管していたのが見つかった。蒋介石政権のも
とで、日本人の銅像を隠し持っていることは大変な危険であっ
たが、銅像はそのまま保存され、昭和56年に墓前に設置され
た。

 [1]の著者・斉藤氏は1996年、50回目の慰霊祭に参加した
際に、近くの官田小学校も取材に訪れた。ダムの工事中に作ら
れ、八田の子供たちも通った六甲尋常高等小学校がこの官田小
学校の前身であった。

 教師の話によれば、生徒に烏山頭ダムと八田の事を教えてい
るという。通訳を通じて、人なつこい子供たちに聞いてみると、
ほとんどの子供たちが八田のことを知っており、「偉いおじさ
ん。台湾人の恩人」と答えた。若い教師はこう言った。

 日本人にあまり知られていない八田技師に関心を持つの
は大変よいことだと思います。それと、八田技師は政治と
はなんの関係もない日本人で、台湾人のためにあれだけの
ダムを造った人物です。日本人はもっと関心を持つべきで
すね。




*********************************************

日本軍は
パート5・345 :名無しさん@お腹いっぱい。 :02/05/07 21:48 ID:Qw65D/z4

台湾に旅行したときに、俺が日本人だと知ると酒を飲ませてくれた
おじいさんがいたよ。日本語が流ちょうなので日本人かと錯覚するほど
だった。
しばらく日本の話なんかをしてると急に泣き出して、日本軍の斉藤軍曹
の話になった。
なんでも、戦争中に随分と世話になったようで、日本軍は正義の軍隊
だって、日本の軍歌を歌いながら大声で怒鳴りまくって最後は大荒れだった
が楽しかった。
すごいいい人だったよ。
これ、実話。




*********************************************

前世はきっと日本人
パート6・293 :文責:名無しさん :02/06/30 13:50 ID:VUVCmwU6

http://www.sankei.co.jp/asia/hello/taiwan/02/dream02.htm

なんかスゴイです。照れる。



*********************************************

「首相参拝は義務」
パート6・561 :文責:名無しさん :02/07/09 22:38 ID:vqaYSRLD

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20020708-00000726-jij-soci

「首相参拝は義務」と訴訟参加へ=台湾の元兵士ら新たに10人−大阪地裁

昨年8月の小泉純一郎首相の靖国神社参拝をめぐり、戦没者の遺族や宗教家ら
639人が首相と国、靖国神社を相手取り、慰謝料の支払いや公式参拝の差し
止めなどを求めている訴訟で、新たに台湾の元兵士や遺族ら10人が8日、
「参拝は戦死した兵やその家族に対する義務だ」として、被告側への補助参加
を大阪地裁に申し立てた。
 同訴訟では、既に別の遺族ら6人が被告側に補助参加している。今回申し立て
たのは、旧日本陸軍兵士だった台湾の鄭春河さんや伯父が戦死した鈴鹿国際大教
授の久保憲一さん(51)ら10人。12日の第3回口頭弁論で、補助参加の3
人が意見陳述する。 (時事通信)
---

台湾おまえら偉い!
ありがとう。




*********************************************

尖閣諸島の領土問題について

パート8・575 :文責・名無しさん :02/09/25 12:58 ID:NyA5H1g0

手本を見せよう。しかもマスコミ板らしく新聞記事を引用して。
沖縄タイムスより。
http://db.okinawatimes.co.jp/cgi-bin/search.pl?data=NEWS/2002/09/19/20020919M001-01-01.text&query=%97%CC%93y&dbname=/data2/INDEX/NEWS&format=long&year=all&month=all&nextskip=&nexttop=&subid=1

李氏は台湾、中国、沖縄について熱っぽく語り掛け、「早い時期に沖縄を訪問し、
台湾と沖縄の協力関係を考えたい」との希望を語った。
 その具体例として、与那国島と台湾の間の海流を利用した発電所構想を李氏の
シンクタンク「台湾総合研究院」で研究中だと話した。
 また、尖閣諸島の領土問題について「中国が領土だと主張するのは、石油